2022年

娑婆世界は堪忍土とも言われ、生涯よかれと思ったことのほとんどが裏目に出て、苦しみに耐え忍んでいかなくてはならない世界です。この感覚が腑に落ちないのは迷っているからです。おばあちゃんが狐に化かされ馬の糞尿をご馳走だと飲み食いする話を幼少の頃よくしてくれました。

2021年

誰かが直接聞きたい気持ちになったのが、私の往生後なら、それは気の毒なので、その時を想定して私はこう話すだろうということを書いています。誰かがピンポイントで、ふっときづくご縁、ちょっとした背中を押す言葉になればと存じます。

 

 

娘にさらに聞いてみました。「気持ち悪い念仏やお経やお聖教を称える人に何ができるかな。」それに対して「本人がきづくまで放っておくしかないね」、「本当に救われたくて切羽詰まったら恥も外聞も捨てて、直接聞いてくるよ。」

 

自力の念仏やお経、お聖教を誰かが称えるのを聞くと何か違うと感じるかと娘に聞いたら「そんなのは当り前」と応えました。それ以前に、滅多にいない信後の人以外の信前の人たちには常に違和感があるとのことでした。

 

「生死出る道」「転迷開悟」とは「善悪を超えた」境地です。自身の煩悩で造る善悪の報いの苦悩の機の在り方にいくら目を向けても栓がないことが知らされ、きがつくと法の中に飛び込んでいた不思議な体験です。

2020年

私の人生における活動など何の意味もなく、影響も与えることなく間もなく命を終えてまいります。それはそれで構わないと最近は感じます。私に真剣に法を請われた方々の求めには応じてまいりましたから。それでいいのでしょう。

 

法を説く者は生死の間の「救急医療」を行う医師のようなものです。大学病院で研究するのでも、病院で通院患者を診るのでもなく、無明で苦しむ人たちの所に自らいつでも赴く往診医です。病気予防、通院患者、入院患者ではなく、行き場のない魂の臨終にある人を救う使命があります。

 

不浄説法をしてはなりません。自信教人信の身に救われた境地がましますことを話すことをお手次というのです。それが説法です。間違ってはなりません。たとえ未信でも尊い誓願を拝受できたことを想像して信後の立場で話すのです

 

「私にまかせて もう大丈夫 安心して ずっと いつも あなたのそばから離れないよ」
これなんです。
真理には心がいかなくても、生まれたままの何も持たない孤独な私を丸ごとを理解してくれる存在を皆心の中で求めているのです。

 

聞く耳を持つなら法蔵菩薩の願心を真理に心を閉ざしている人には言葉でなく、声なき声の真実を身体全部で伝えるしかありません。これが正定聚に救われた者の菩薩道です。

 

臨終の人にこう話します。「見ているよ、知っているよ、待っているよ」という親を超えた「親さま」のような真理の存在がましまし、一瞬でその真理と一体化できます。死後は共に衆生済度の一員になれます。私も何も持たないままそのような身に救われました。