2019年12月18日

 近くにいて本人の醸し出すオーラ、書いている文章が煩悩に漬かりきって恍惚感が溢れているのに遭遇すると、できることなら、一刻も早く、どこか別の場所にワープして離れたくなります。下世話な雰囲気には耐えられないので早くお浄土にかえりたいです。

 

 私は自らの煩悩で作った貧困争で後悔して苦しんでいる人たちが苦手です。頼まれても話したくありません。それらの苦しみの元となる無明の闇に怯え、死の恐怖と向き合っている人なら地球上のどこへでも行って話をしたいです。

 

 釈尊は阿弥陀仏の本願に救われていたけれども、それを説くのは時期尚早であったか、聞く人たちが混乱するのを避けるためにご存命中には具体的に説かれなかったのかもしれないと感じています。後の世の人たちに時節到来したのかとも。

 原始仏教、初期仏教に阿弥陀仏の本願がなくても、王舎城もビンバシャラ王、イダイケ夫人、アジャセ太子はいました。霊鷲山も、牢屋の跡もインドにあり見てきました。本願が人々の理解を超え後に伝わったか、実際、救われた人の口伝かもしれません。

 無宗教や他宗教で阿弥陀仏の本願を知らない人は地球上にたくさんいます。全ての人を救う誓願ならそれらの人も目当ての内です。自力を手放した体験だけあって、御礼の念仏も称えラレないでいる人もいるかもしれません。

 何か話す前に自力が既に廃っていた人が徳の高い人でも、その体験を他の人に伝えたい人でもない場合が多いです。自ら宗教の教えやその過程を求めたら救われると他の人にも伝えたいと感じるかもしれません。突然救われた人は伝える術もなぜ救われたのかも何も分からないからです。

他力(手放しの信心)を法座や既に体験した人から聞かないでもふっと体験した人に何人か出合ったことがあります。無宗教や仏教以外の他宗教の方でした。もしかしたら、水俣の方はそういう人なのかもしれないとふと感じました。それならなおさらお逢いできたら嬉しいです。

 

2019年12月18日 
 もし、狐に化かされ、ご馳走が馬の糞尿であると見抜けたら、それを好んで飲食をすることは止めます。幼少の頃、おばあちゃんが繰り返し、例え話で、人生そのものが夢幻だから、迷いから目覚めて、流転輪廻を繰り返さない、本当の仕合わせを掴まないといけないと教えてくれました。

『御文章』第二帖目一通
「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」
信心の沙汰をせよということでしょうか?信心を賜っても、本当だろうかとしばらく信じられない人もいるようです。
「信心の赤ちゃん」の方が柔らかくていい匂いで、可愛いい感じがしますが。(笑)

2016年12月18日 
「古くて硬直した仏教研究を新しく柔軟なものに変えていく」
 研究の先行研究の論文を拝読していて、尊敬している先生が、お若いときに私が前期、戸惑い、その後、アントワープの発表を経るなど紆余曲折して今は気にしていないことについて書かれていました。それは実践仏教が研究とは言われないという問題ですが、ウィリアムジェームズや岸本英夫などを取り上げて論じていました。晩年は生きた仏教、信心の話をされていたのでそんなときのことはもうお忘れになっていたかもしれません。同じ位の年代の仏教の私の80代の先生も研究者として信心のことを今までは書いてこなかったけれど、これからは書いていくとおっしゃっていました。
先生方の先行研究や論文があるから、私がこれから書く博士論文において多くの人が速やかに救われる教えや実践を自由に書いてもいいのだと、今日はとても嬉しく感じました。
死んでる研究はしなくてもいいのだと。
 夏に京都で開かれた考古学の世界学会のお手伝いをして、世界の研究者が今生きている人のための学問を生き生き語っているのを見て、これからの私の研究の方向性を見つけた気がしました。
 まだまだこれらをどのように文章化して行けるのかは思案中であり、これから試行錯誤しなければなりませんが、生きている間少しでも分かり易く、多くの人たちが迷いから抜けられるように、人生を大いに遊べるように、ほかにも何らかの役に立てるように表現してまいります。
 仏教の実践研究を進めていく過程で、研究が権威・地位・名誉など古い時代の産物から解き放たれて、生きている人みんなそれぞれが持って生まれた才能を活かして仕事をし、家庭内でもモラハラ・DVが無くなる時代にみんなで変えてける気がしています。
 感謝していること
  今、向き合っている論文とご縁があったのも、大学院の博士課程で信心の論文を書こうと志したからで、そのことはとても有難いと感謝しています。

 

2013年12月18日
「つまらない自慢をする自惚れが邪魔して、大いなる力に完全にまかせられない」
 自然や周りの些細な風景がこんなに素晴らしいと感動できる自分が好き
 いつもってわけじゃないけど、わりと他人に優しくできる私はいい人
 牛さん、豚さん、鶏さん、魚さん、命をいただくことを有難く感謝している私って素晴らしい
 言いたいことがあるけど言うと揉めるから、飲み込んで、この辺で丸く収めようと出来る私って親切で我慢強い
 本当はしたくないことでも、困ってるって言われると相手に利用されているんじゃないかってちらって思っても、役に立ってるって思いたい。
 全部偽善ぽくって煮え切らないし、こんな風に生きてたら、死んでるみたいだし、つまんないんじゃないでしょうか。心身の病に悩みそう。
 感動するのはいいけど、感動できる自分に酔うのは変な気がする
 余裕がなかったら、人を押しのけてでも自分の得になることをする優しくない人でもあるよね
 有難く感謝してるなら、命を奪われそうになった時に死にたくなくて暴れるようなものは食べるのよしたら
 ほんとの友だちは言いたいこと言っても嫌いにならないよ。おかしいことはおかしいっていうけど、人に迷惑を掛けたりしないなら、そういう生き方なんだって認めてくれるよ
 人に悪く思われたくなくて何かしちゃダメだよ。
 必ず見返りを求める気持ちになるから。
 本当にしたいだけ、出来る範囲で自発的にしたら文句は出ないよ
 人を無償で使う人は信用しないほうがいいよ
 何ででしょうね。人間は何かを自慢しないとすがらないと、生きていけないのでしょうか。
 それなら、毒の混じったつまらない賄賂なんかを清らかな真理の前に差し出して助かろうとする大きな勘違いはやめて、全面的におまかせしますと自惚れを廃してただ信じたらいいのに。何もできないことなんかとっくにお見通しなのに。
 感謝していること
 何の不思議か信じる心すら賜りました。