「遠くにある死を目の前に引き寄せて」
「長綱をはいているから真剣に法が聞けない」
「今死ぬと思える心は宝」
このように説法の中で毎回聞かされてきました。頭の中では死んだらどうなるのか、どうしようときりきり舞いしているのですが、感情の猿がうごめいているだけだと叱咤されることの繰り返しでした。また、本当に後生に驚きがたったら、赤飯を炊いて祝うくらい有難いことだとも言われました。
ピンチはチャンスの言葉の通り、元気で生きているときに、後生に驚きが立つならそれに越したことはありません。しかし、生きること、食べること、仕事や生活の様々なことに惑わされて、自分が死せる存在であるとはなかなか自覚できません。
仮に、それが、他人から見ると、一見、悲惨極まりない不治の病で余命わずかという状況であっても、自分の死と真剣に対峙した結果、「もう私だめなんじゃないでしょうか」と覚悟を決めた時は、同時に、永の迷いから覚め、生死を超えるチャンスの時なのです。
「そう感じるんですね」との呼び水から、自身の死への恐怖の辛さ悲しさ怖れなどを余すことなく吐きだすと受け止めてくれる相手がいたらどんなにか飛び上るほどうれしいでしょう。ここからが大切です。そんな自分の命の行き先を教えてくれる方なら、今生に生まれてきた目的はその場で達成できます。
他にもあるのかもしれませんが、私は浄土真宗しか知りませんのでそれを伝えます。
「いまの不安なあなたをそのまま救う願いを阿弥陀仏という仏さまが建てられました。ずっと昔にその願いは成就されました。あとはその願いを信じて受け取らせていただくだけです。その願いは南無阿弥陀仏というお薬となりました。いま ここで『どうぞ受け取ってください』といわれるまま、そのまま『はい』と受け取らせていただきましょう。一息切れたら阿弥陀仏のお浄土に生まれることができます。私も何もないまま生まれさせていただきます。どちらが先かはわかりませんが、お浄土でまたお逢いしましょう。」
本人が信頼している医師や看護師や医療関係者がこのようなことを言われたら一番いいです。家族や友人が言ってくれてもいいです。でも、近しい人からは、それまででも聞けなかったかもしれませんから、難しいかもしれません。医師が知り合いの僧侶や救いの話をしてくれる人に頼んで、その人たちに来てもらえるのならそれも素晴らしいです。
感謝していること
後生に驚きが立ち、真剣に死と対峙できたことを不思議で有難いと慶んでいます。空想の死ではなく、目の前に引き寄せた死に驚いた人でしか、阿弥陀仏の願いを本当に受け取ることはできません。
