だらだら過ごしても、覚悟や決意を持って過ごしても同じ一生です。
今生で果たす目的を終え、その後の使命を私は生きてきました。
それぞれの学びややり方があるのでしょうが、何だかつまらないし勿体ないように感じることがあります。余裕がある、力を出し切っていないもしくは出し惜しみしている。それはそれでその人の自由であり、口出すことではないのでしょうが、苦しみの原因がそこにあるとは気が付かずに、別の方向で頑張っていたり、他人のせいにしているのを見ていると遣る瀬無いです。
私は最近、道についてよく考えます。自身が信じる道を行けば先が見えてきたり、開けていく気がします。それしかありません。誰かの考えや意見は参考にはなりますが、最後に決めるのは自分です。自分の責任における人生を歩んでいくしかないです。これは大人でも子どもでも同様のことです。人生の終わりにどうなっていたいか、そこまでの見通しを付けて生きていくしかないです。志半ばで終わってしまうかもしれませんが、それはそれとして、行きつけるところまでいったらいいだけです。
中途半端なのと、自分の本音と実際の言動が一致していないことは苦しみを招き、ストレスが溜まり、それなりの成果は出るでしょうが、いつも消化不良で、達成感がなく何か足り心を抱えて過ごすことになります。それが今生の学びであり、そういう状態を甘んじて受けられるならそれでもいいです。でも、私はそんなのは真っ平御免です。そのようにいきてきましたし、これからもしません。
ただ食べて寝て起きてが人生なら、それは無駄な消費活動であり、他人を傷つけ続けるサイクルにしかなりません。そこに真理との邂逅という要素が欠落しているのが問題です。真理との邂逅を目指す、果たす、その後、どういう生き方をするか自分で考えて道を開いていくことがない人生は迷いの苦しみの中で溺れているようなものである気がします。
目的に向かって一直線に進む覚悟、今生の自分に課せられたことを学び切る決意がないから、逃げているから苦しい人生が、そこにあるのだとやっと知らされました。明らかに使命を果たすことに障害となり、目的違いの場合を除き、何らかの学びのヒントが隠れている気がします。
とりあえず力の出し惜しみをすることやいい加減に誤魔化すことはそのままの結果が返ってくるので、極力しないようにすると決心しました。
感謝していること
大きめなモニターや目に優しい蛍光灯などを買ってきました。大学院での最終の学びを一日でも早く修了できる心強い味方になってくれそうです。有難いです。
