いくら仲良く元気に暮らしても、いつかは老いて死んでいきます。
生死を超える体験を少しでも若いときに済ませてしまったならば、残りの人生は特に何も望まなくなります。劣等感もその根底にある死に対する恐怖心もないので、他人に譲る気持ちがあるので、特にどうでもよくなります。
生死を超えるというのは迷いを抜けて目覚めることで、死が来てもその先は故郷に還る感覚でいられます。生と死が断絶ではなくなります。還るべきところに還るのだと安心して生きられるようになります。
精神の病は他人との関係の不調和からもたらされることが多いです。カウンセリングを学んできましたが、そんなことばかりです。人間関係に長じて、スムーズに世渡りが出来たとしても、生活も豊かで、元気で長生きできても、生まれたからには人は必ず死にます。行く先が決まっていたならば、残された家族にも先に行って待っているからと言い残して還れます。その様な境地に達することができるように真理を求めることが人生の目的です。
人間同士が育て合う、育ち合うのではなく、真理にお育ていただくということなのでしょうが、そのことは真理との邂逅を果たさなければ、わかりません。
人間の世の中は面倒ですが、これも真理に行きつく学びなのでしょうか。それにしてもかなり辛くしんどく哀しいことが多いです。そこまでされないと真理を求めようとは感じられない愚鈍な存在が人間というものなのでしょうか。
それはともかく、死ぬときには、先に行って待っていると言い残して私も死んでいきます。だから悲しまないでください。待っていますから。
感謝していること
行く先の故郷が明るく感じられ、特にこの世に何の未練がなく、誰かと争ったりすることもなく、威張ることも、脅かすこともなく、生きられるのは不思議で有難いです。これを仕合わせというのかもしれません。
