弥陀の本願に救われても、臨終まで煩悩は消えず、欲や怒りや愚痴などに翻弄され、苦しむことには変わりありません。それでも、煩悩即菩提に転じ変わるのは不思議で有難いです。信後、自分の気が付かない煩悩の中の灰汁・澱のようなものにお聖教や御説法そして、周りの人たちと生きていく中で知らされるのは人生の大混みなのかもしれません。凡夫というのはかくも情けなく哀れで苦しく、されど憎めない者だと自他共に知らされていく中でしか、弥陀の本願をお話しすることはできないのかもしれません。
上から目線で、「ただ本願を仰いでください、『生死いづべき道』に進んでください」といっても余計なお世話だといわれることが多いでしょう。「あなたのような恵まれていて、お気楽なひとに言われたくないです」とか嫌味や皮肉を言われたりもするかもしれません。
無常・罪悪に苛まれ、生きた心地がせず、仏教やほかの教えに助けを求めて、すがる人は稀です。ほとんどの人が生きることの苦しみで、煩悩の嵐の中で右往左往しています。根本の迷いのことなどいくら言っても分かりません。
信後に限らず、誰かと仏教を話すことで、煩悩の中の灰汁・澱が浮かび上がり、消えていき本来の「生死いづべき道」を求める姿に立ち返っていく気がします。私は仏教の浄土真宗という道とご縁がありそれを指針に生きてきましたが、ほかの宗教等でも同じことができるかもしれません。これはまだ研究の途上なので何とも言えませんが、一番易しく速い真宗の教えをお話しし、書かせて頂けていることはこの上ない身のよろこびであります。
感謝していること
灰汁や澱が知らされ、浮かんでは消えていくときに光の中に溶け込むような感じがします。人間として生きている醍醐味なのでしょうか。不思議で有難いです。
上から目線で、「ただ本願を仰いでください、『生死いづべき道』に進んでください」といっても余計なお世話だといわれることが多いでしょう。「あなたのような恵まれていて、お気楽なひとに言われたくないです」とか嫌味や皮肉を言われたりもするかもしれません。
無常・罪悪に苛まれ、生きた心地がせず、仏教やほかの教えに助けを求めて、すがる人は稀です。ほとんどの人が生きることの苦しみで、煩悩の嵐の中で右往左往しています。根本の迷いのことなどいくら言っても分かりません。
信後に限らず、誰かと仏教を話すことで、煩悩の中の灰汁・澱が浮かび上がり、消えていき本来の「生死いづべき道」を求める姿に立ち返っていく気がします。私は仏教の浄土真宗という道とご縁がありそれを指針に生きてきましたが、ほかの宗教等でも同じことができるかもしれません。これはまだ研究の途上なので何とも言えませんが、一番易しく速い真宗の教えをお話しし、書かせて頂けていることはこの上ない身のよろこびであります。
感謝していること
灰汁や澱が知らされ、浮かんでは消えていくときに光の中に溶け込むような感じがします。人間として生きている醍醐味なのでしょうか。不思議で有難いです。
