幸せな気分を味わうのに言葉は要らないです。

 ただ、ああ~と感じるだけ。
 反対に不幸せな気分になるとき、自分以外の誰かの意地悪な言葉がそこにあります。

 その不快さを今まで言語化できなかったせいで、私は度々場面緘黙状態になりました。嫌な人とはなるべく一緒にいないようにしても、それが何らかの理由で避けられない時、自分自身が言葉を発することがなければ、何か嫌なことや酷いことを言われる回数がどんどん減ってきます。そして、目標は嫌な人と関りを断ち、相手にもされないことです。このように、言葉は人をそれほど幸せにはしませんが、不幸にすると私は実感を通して感じています。

 嫌な感覚の正体は自分を守り、イイ人、素晴らしい人、立派な人、私より賢く頭のいい人に見せかけようとする狭窄な心が感じられる立ち回りです。その演技性がどうしようもなく目や鼻について、心をナイフでぐりぐりえぐられるような感覚を覚えました。そこまで自分に自信がないの?私なんかに勝ってどうするの?仲良くできたらそれでいいんじゃない?

 ひととひとは共生して生きられたら、何の嫌さもないです。譲り合って、分かち合って、気持ちよく感じることが出来るような営みを続ける生き方を追求したらいいだけです。でもそれは難しいとされています。それは嘘だと私は知っています。自我を満足させるためのノウハウを子どもたちに押し付ける大人を止めたらいいだけです。優しさと思い遣りだけを実践して子どもたちに見せたらいいだけです。簡単なことです。

 生存学・障害学などという学問分野があります。そういうところで研究し、論文を書き学会発表をしている研究者に問いたいです。「他人にそして自分自身に優しく思い遣りのある内容の研究がベースにありますか」と。私は今の大学院でご一緒させていただいているある研究者をとても尊敬しています。文章力・語学力などの能力の点で優れているのは当然として、その上に、自分やほかのひとを幸福にする研究をずっと続けているからです。お話しされる一つ一つの言葉に重みがあり、謙虚で優しさに満ち溢れています。

 嫌だった何かに私が今、だんだんきづいてきたのは、その方自身、ご自分が体験した嫌だったことを例に陰に陽に私に分かり易く教えてくださったからだと感じます。嫌だったときどうするかお尋ねすると、「泣く、自分に対してキーとなる、許せない」という言葉が返ってきました。私は自分を抑える質なので、嫌なことを隠蔽し、誤魔化して生きてきたのだといつも新鮮な驚きを感じました。私のつまらない螺旋状の質問に付き合って丁寧に教えていただけたので、だんだんにどういう方向で自分の研究を進めてったらいいか可視化された気がします。有難いことです。

感謝していること
 素晴らしい方とは思いがけない場所で出会えるものだと感謝しております。