まず考えることから始まります。
 どうして自分は苦しいのか。
 周りの人も苦しんでいる。
 どうしたらそこから脱け出せるのか。

 釈尊は自分でそれを何とかしようとしました。
 七高僧方は初めは仏教の教え自分で考えて何とかしようとしましたが、最後は結局
釈尊が説かれた浄土仏教の阿弥陀仏の本願に帰依して救われました。もしかしたら
釈尊の様に自力で救われる能力がおありになったかもしれません。それでも祖師方が
阿弥陀仏の本願で救われ、その教えを文章で後世の私たちに残されたのは、弥陀の本願が全ての人が救われるのに、一番易しくて、早く救われる方法だったからです。

 いろいろな救われ方があるのかもしれません。でも、仮に救われる方法があったとしても、老若男女全ての人が、頭脳明晰でなくても、ただ救われたい、幸せになりたい一般の人が、それを理解し、実際修行できるものでなければなりません。

 源信僧都、法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と浄土仏教は連綿と引きつがれました。江戸時代にはたくさんの妙好人を輩出しています。一般の人が救われるのが浄土仏教であり、浄土真宗なのです。まず、説法を聞くこと、そしてその後平易な言葉で信心を既に賜った善知識と御同行と御示談をします。座談会のようなものでそれぞれの心の内を包み隠さず話します。疑いが晴れない苦しい気持ちをみんな初めは持っていますが、それが晴れた人たちの生き証人としての話を聞き、元気付けられふと救われる時まで何回も話をします。

 聞法は理論的なことを聞く場でもあり実践の場でもあります。理論と言っても、私たち無明業障の怖ろしき病を持った凡夫がいて、それを何とかしようという阿弥陀仏の本願があり助かってお礼の念仏を称えられるようになるまでのお話を聞くのです。これを仏願の生起本末といいます。自分は限りある命を持っていて、迷っており、それを何とか今生の今、ここで救われたいと願う人たちが、聞くことでいつかきづきます。その後、それを既に助かった善知識である僧侶や御同行たちが見護られながら一緒に話をします。何と手厚く優しい修行でしょうか。私のような怠惰で根性もなく一人では何もできない者にとって、一番機に合った方法でした。

 理論は大切ですが、身体にかけてしていかないと机上の空論になります。自分自身の問題とならないからです。いま、ここで自分が救われないとならないと真剣に思えた時、救われます。どうか一日も早く救われてください。

感謝していること
 釈尊やその教えを引き継いで教えてくださった、後の善知識方への感謝の気持ちで一杯です。