同じくらいの深さや広さの慈愛を持っている人同士が引き合う気がします。
「おそろい」じゃないと満足できないんだと。安心できるってそういうことなんだと。
その「おそろい」の親の所に生まれてるんだけど、それが分からなくてすれ違う。パートナーや友だちは選べるから、「おそろい」の人とじゃないと上手くいかないってことやっと最近分かりかけてきました。どちらともなく居心地が悪くて離れてそれっきり。反対に、おんなじひととばかりいたくなるのは無意識に「おそろい」を求めて安心したいんじゃないかって。ちょっと間が空いても「おそろい」のひととだと前の時の続きの心地よい優しさに包まれるように感じる。寂しくなったり何か辛いことがあると無性に逢いたくなるのはそんな「おそろい」の感覚を持つ人です。
自分もそうだったけど、初めから親じゃなくて、少しずつ親になっていく感じです。高校生になったばかり娘の親の私はまだまだ新米で途上です。90代のおばあちゃんが70代のパパにかけていた眼差し、80歳のパパやママの私に対しての憶い。
年月をかけて長いこと醸造されたその慈愛の中で私は生きてきました。
おばあちゃんやパパに私はどれだけご恩返しが出たのでしょうか。そんなことを振り返る間もなく、あっけなく先に逝ってしまいました。出来ることならずっと一緒に居たかった。私の方が先だったらよかったのにと思いましたが、そうしたら彼らが悲しむ時を過ごすのかな。
三次元の身体を持つ人間なので、それぞれの寿命で一緒に居られる期間が異なります。だから、生きている間に、照れや恥ずかしさを乗り越えて、少しでも優しくしていたいと痛感します。それは肉親だけじゃなくて、周りの自分と関わっている人たち全てにも「おそろい」の慈愛が感じられたら、きっと本当にお互いが掛替えのない人になりうるんでしょう。「おそろい」じゃなかったら物足りなくて、一緒にはいられないのかも。慈愛の「おそろい」の人の所じゃないと収まらないし、居心地が悪い。
年齢性別国籍全部関係なしに、いずれ死に逝く身体を持つ人間として、慈愛の光がほぼ等しいような人たちと、それを与え合い、感じ合い、受け止め合えたら、寂しくないのかもしれません。あのひとも、このひともつながっていて、今どうしているんだろうと考えているとき、相手も私のことを気にかけてくれている「おそろい」の気持ちがあれば人生って生きている意味があるし、それほど悪くないんじゃないかって感じます。
特に、親という存在はおそらくずっと自分を気にかけてくれています。ただ自分のことで精一杯で余力が無かったり、愛情表現が上手くできなかったりするときもあるでしょうが、その親を選んで生まれて来たのですから、きっと「おそろい」だったのでしょう。おばあちゃんもパパももういませんが、一人さびしく暮らすママのこと幸せを念じてこれからは生きていきます。周りの「おそろい」の人たちも同様に大切にして生きていきます。
感謝していること
一番大切にしなくてはならない大事な人のことを当たり前に考えて疎かにしがちだということを知らされました。ママも含めておそらく何度も一緒に生まれ変わってきている周りの大切な人たちと「おそろい」の憶いを共有していきます。
「おそろい」じゃないと満足できないんだと。安心できるってそういうことなんだと。
その「おそろい」の親の所に生まれてるんだけど、それが分からなくてすれ違う。パートナーや友だちは選べるから、「おそろい」の人とじゃないと上手くいかないってことやっと最近分かりかけてきました。どちらともなく居心地が悪くて離れてそれっきり。反対に、おんなじひととばかりいたくなるのは無意識に「おそろい」を求めて安心したいんじゃないかって。ちょっと間が空いても「おそろい」のひととだと前の時の続きの心地よい優しさに包まれるように感じる。寂しくなったり何か辛いことがあると無性に逢いたくなるのはそんな「おそろい」の感覚を持つ人です。
自分もそうだったけど、初めから親じゃなくて、少しずつ親になっていく感じです。高校生になったばかり娘の親の私はまだまだ新米で途上です。90代のおばあちゃんが70代のパパにかけていた眼差し、80歳のパパやママの私に対しての憶い。
年月をかけて長いこと醸造されたその慈愛の中で私は生きてきました。
おばあちゃんやパパに私はどれだけご恩返しが出たのでしょうか。そんなことを振り返る間もなく、あっけなく先に逝ってしまいました。出来ることならずっと一緒に居たかった。私の方が先だったらよかったのにと思いましたが、そうしたら彼らが悲しむ時を過ごすのかな。
三次元の身体を持つ人間なので、それぞれの寿命で一緒に居られる期間が異なります。だから、生きている間に、照れや恥ずかしさを乗り越えて、少しでも優しくしていたいと痛感します。それは肉親だけじゃなくて、周りの自分と関わっている人たち全てにも「おそろい」の慈愛が感じられたら、きっと本当にお互いが掛替えのない人になりうるんでしょう。「おそろい」じゃなかったら物足りなくて、一緒にはいられないのかも。慈愛の「おそろい」の人の所じゃないと収まらないし、居心地が悪い。
年齢性別国籍全部関係なしに、いずれ死に逝く身体を持つ人間として、慈愛の光がほぼ等しいような人たちと、それを与え合い、感じ合い、受け止め合えたら、寂しくないのかもしれません。あのひとも、このひともつながっていて、今どうしているんだろうと考えているとき、相手も私のことを気にかけてくれている「おそろい」の気持ちがあれば人生って生きている意味があるし、それほど悪くないんじゃないかって感じます。
特に、親という存在はおそらくずっと自分を気にかけてくれています。ただ自分のことで精一杯で余力が無かったり、愛情表現が上手くできなかったりするときもあるでしょうが、その親を選んで生まれて来たのですから、きっと「おそろい」だったのでしょう。おばあちゃんもパパももういませんが、一人さびしく暮らすママのこと幸せを念じてこれからは生きていきます。周りの「おそろい」の人たちも同様に大切にして生きていきます。
感謝していること
一番大切にしなくてはならない大事な人のことを当たり前に考えて疎かにしがちだということを知らされました。ママも含めておそらく何度も一緒に生まれ変わってきている周りの大切な人たちと「おそろい」の憶いを共有していきます。
