学者は何かというと「エビデンス」証拠を出せ、これが口癖。
 誰にでも当てはまり、どんな時に同じアプローチをしても同じ結果が出ること以外信用しないし価値がない。
 逆に考えるとこんなことはあり得ません。
 
 一人一人体格も経験も元々の遺伝子も違うのに同じ結果が出るはずがありません。
 「応病与薬」が基本です。その病に対して丁度いい薬を与えないと治る病も治りません。
 カウンセリングもマニュアルやセオリーにとらわれて、クライエントの訴えをないがしろにしたら回復から遠のきます。

 心理学で言われていることも多くが当てはまる理論でしょうが、そうでない人もいます。理論は難しすぎてそのままクライエントに伝えても分かりません。
 それぞれの訴えを個別に詳しく聞いて、気持ちを心で共感し、一緒に今後の物語を紡いでいくナラティブアプローチをもっともっと使えるようなカウンセラーの育成が望まれます。

 これは宗教的体験、言い換えると真理との邂逅でも同じ事が言えます。
たとえば仏教のお経やお聖教は一般の人には解釈が困難です。仏語一つでも詳しい説明が要ります。最低1年くらい一生懸命仏教の勉強を身を入れてしないと法話に行っても何が説かれているかもわかりません。ほかの宗教にしても同様でしょう。
さらに宗教は生活そのものなので、その人の考え方や言動を注意深く聞き取り、自身も真理と一体になる体験があり、加えて導く訓練をした人でないと出来ません。体験はとても困難なので、せめて学問だけでも正確に伝えられる人でなければ、他者を導けません。

 心理学的なアプローチは絶対にこのようになるということがないので、まあまあ本人が一般社会で日常生活を送れるようになればよしということなのでこれでおわりというところはどこでもいいのかもしれません。だからどこが治った地点なのかというのもないのです。
 一方、究極の宗教的体験は最終的に真理との邂逅・一体化、そしてまったくうち任せた体験なのでその境地に入った人からすると判断は容易です。ただそういうところまで求め切った人も少なく、導く訓練をした人はもっと少ないのが現状でしょう。

 科学的発見とか研究とかも少しずつ編み目の細かいお玉のようなもので実験対象をすくってそこに残っているものを発表しているようなもの。より細かいお玉ですくう人が現れそれを出したらそちらが真理となり替わります。
 文学や歴史も細かい所をすくっているような研究をしている人がいます。しかし、もっと細かいお玉ですくう人が出てきたら、また別の視点や新たな事実というエビデンスが出てきたら、いままでの成果はひっくり返ります。

 十代の頃、私は科学や証拠に基づく学問というものを捨てました。
 目の前にいる人、今生きている人、これから生まれてくる人たちが実際役に立つことを学んで行こうと決意しました。実利的な社会科学を学び続けました。いつも今していることの社会的意義を考え、何らかの貢献ポイントがあるかを振り返りました。
 2つの大学で違う分野の学士資格を取った後、歴史や文学を学ぶ人たちの中にも、人間の心性の部分を取り上げ、そこに焦点を当てている人たちがいることに興味を持ち始めました。まだ手を付けていない文系の分野でした。そしてそれらを学ぶために今の大学院に入学して、自分より年上の先生方から必死に学び取ろうとしました。

 昨年今年と「アメリカ・イギリス・フランス・江戸文学」、そして「日本史・西洋史」の先生方から本当にたくさんのことを教えていただきました。
 一番印象に残っていることは、小説の結末で主人公が自尊感情を踏みにじられるような行為を許したことに対して「罪を憎んで人を憎まず」ということでしょうかと法律を学んだ時に聞きかじった私の発言に対して、先生が「人間として当然のことです」と言われたことでした。

 イギリス文学の先生はクリスチャンで教えを深く理解されていて、そこに書かれている英文の行間もじっくりと噛み砕いて教えてくださいました。今年はおばあちゃんと孫のイギリスの物語を読みましたが、ご自身もお孫さんがいらっしゃることもあるのでしょうが、とても嬉しそうにたくさんの解説をしてくださいました。 そして「細かい研究はその分野の人たちにとっては刺激となるけれども・・・・・・」と私が「それが何?」と例示した分野の研究に対しては言葉を濁していらっしゃいました。
 フランス文学の先生にはこんなに語彙力や記憶力が優れている人がこの世にいたのだと驚かされました。フランス文学の楽天的で陽気なところやユーモアでどれだけ気持ちが明るくなり勇気づけられたとでしょう。
 江戸の物語文学の先生に影響を受けて、杉浦日向子を論文に書こうと思い立ちました。少し見解が違うところもありますが、とても熱心に懇切丁寧に江戸文学について教えていただきました。

 江戸の歴史の先生は「江戸しぐさ」が偽物で、「慶安のお触書」も別のものであることなどから、歴史を学び論文にするときの注意点や考え方の入り口を何度も何度も呑み込みの悪い私に繰り返して教えてくださいました。
 西洋史の先生はお若く、いつも清潔感が漂っていて、にこやかで飄々とあっさりした感じの方ですが、「アナール学派」の考え方を様々な角度から説明してくださり、まだ最近のご自身の大学時代やイギリス留学の経験をお話し下さいました。

 宗教団体やカウンセリングルームではなく、大学院という研究機関なので、事実や先行研究や他の人の考えも示しつつ、その中で人間として大切なこと、共通点を見つけ出し、集約して言葉で示していくこと、論を展開していくことの大切さを学びました。
 それでも、またまだ歴史も文学もほんのさわりしか学べていない気がします。
歴史的事実も文学に書かれたことも過ぎてしまったことは再現できないし、著者もこの世を去って行きます。その上、それらはその事実を行った本人たちや作者の意図したこととは違った解釈をされることもかなりあることでしょう。

 ただ、全ての学問は宗教や心理療法などと同様に人々がよりよく快適に生きることのためにあるのだと私は考えます。宗教家の私は全ての人たちが真理との邂逅を目指すきっかけになることをより願います。
感謝していること
 たまにでも折に触れ、あの人は元気でいるかしらと思い出したり、心を掛けてくださる方があることはとても有難いことだと感謝しています。