超人的な素晴らしい人だとか、目立ちたいとか思われたいから真理とか御仏の願いとか書いてるって思われてたら、とても悲しいし残念ですが仕方ありません。
 所詮人間同士です。仏さまからご覧になれば上下などありません。お互いが自分自身の使命を持って生まれ生きているだけです。
 自分がいかに自分を認めてあげられて、優しさの中で生きられるかどうかです。

 いつも時間がないって思ってるから、出来るだけ紛らわしくないようにいろいろストレートに言っちゃってますが、それを快く思われないなら、優越感でいい気になっているって感じちゃうなら、それはそれぞれの過去世からくる業のなせるわざなので、嫌なら自分に合った人と人生は共に過ごされるいいでしょう。

 前に書いたように、以下のものとは今後無縁でいたいのです。
 「否定」する人たちは以下の三つの嫌悪・憎悪・闘争があるようです。
 あなたのように本当はなりたいけど、なれないという劣等感で嫌う「嫉妬・劣等感憎悪」
 自分と能力も出自も今の立場も同じようなのに、偉そうにしてという「同族的な嫌悪」
 他人に能力があることが世間に知れると自分の無能がばれるという「権力闘争」
 こういう劣等感や妬みや闘争心を持った人は、どんなに恵まれても死ぬまで安心できません。仲良くしようと言われても、本当にそう思っているのだろうかと「疑い」続けて安心できないからです。

 もし、投稿記事で気に障ると感じるなら見ていただかなくても結構です。お互いの為になると思います。かつて私が真宗のからひっそり消えたように、そうしてください。全然構いませんから。
 拒まない代わりに、冷たいようですが追いもしません。かなりあっさりしていて執着がありません。一通り言うだけ言ったらスッキリして忘れています。

 こんなことを言うとまた自惚れてるとか、上から目線だとか思われるかもしれませんが、迷った人間を相手に責めたり、文句を付けたり、指導したり、矯正しようとしたりする気は毛頭ありません。
 時によかれと思ったことも、余計なお世話だ、その生意気な態度をまず反省しろと言われると、この人は私をそういう風に思っているのかとだけ思われます。そのままの私は受け入れてくれない人なのだとただ知らされるだけです。
 私が書いているのは、お金儲けでも、人に偉そうにするためでもありませんから。そこだけ分かっていただける方に読んでいただけたら幸いです。

 歴史も倫理もその時代や場所で変わりますし、ちょっとした発見で過去の価値観ががらりと変わることすらあります。間違いなくそうだと思われていた史実が、塗り替えられることなど日常茶飯事です。
 美意識も善悪も変わり通しの世の中で、変わらないのが御仏の願いです。世間の人は変わり通しのことを変わらないものだと勘違いして、未だ死なないと思って欲にまみれて生きているだけです。

 どうせ50ねん、100年の間の世間のことはその人の好きなようにしたらいいと思います。
 ただ、私はどんどん酔いが醒めてきていて、ほかの人が楽しいと思う飲食や他の快楽が子どもの遊びのように思えてきてしまっていることは確かです。
 火宅無上の人間に生きて、迷いを迷いとも感じず、欲にまみれてお互い責め合い傷つけ合うのが嫌な気弱で卑怯な私は批判的な信じてくれない相手からは隠れたり、逃げたりしてしまいます。
 
 もう十分欲も満たして、特に欲しいものもなく、したいこともないのですが、一つだけ願うことはたくさんの人と共にお浄土に還ること。
 こんなことをいうと、また目立ちたいのかと、気に入らないと一度思った時点で、何を言っても全部否定や批判の色眼鏡で見られてしまうのが人間の悲しさなのかもしれません。
感謝していること
 本当にしたいことが出来ないなら、別の道を行くのも一つの手かもしれないと考えることが出来ました。