法を説く立場の人は信・未信に関わらず、自分の欲得の為に法を捻じ曲げることは全人類を不幸のどん底に堕とします。これは絶対あってはならないことです。
  もし未信であっても、とりあえず、お経やお聖教のお言葉を自分の思いを入れずにそのまま説くことは可能です。御縁の深い人はそれを聞いただけで救われることもあるからです。
 自信教人信が理想ですが、そこまで行くのは御縁の深い人であり、なかなかいません。
 4,50年の期間がかることだって普通にあります。それくらいかかろうとも今生で救われたらそれでも大したものです。ほとんどの人がまた迷いの世界に舞い戻ることを考えたら。
 
 性質が悪いのは真実信心を賜りながら、真理とは異なることを布教することです。それが金儲けのためか名誉の為かは分かりませんが。卑劣な行為です。
 それならば、未信ながらも、道途中でも真実だけを説法する人の方が害は少ないです。ただ、ほとんどの人はご縁が浅いので、お経やお聖教の言葉だけを聞いたのでは救われることがないのです。常に軌道修正されるような厳しい信心の沙汰を受けながら、あるときやっと真理と一体化する人がほとんどです。

 沙汰が出来るのは信心を賜った人ですが、そういう人は少ないです。信心を賜ったからといえども、実地で沙汰を繰り返さないと技術は上達しません。医師が患者を診ないと腕が上がらないのと同じように。
 信心を賜っても自分一人で満足して、ひっそり御仏のお名前を称えて暮らす人もあります。それはそれでいいのでしょう。
 しかしながら、自分が何十年も真理を求め、知識を探し続け、間に合わない自分の力で助かろうと空回りして、役に立たない涯のある泥水でものどが渇いているし、我慢して飲むか、泥水か清水かの区別もつかない阿呆なのでよろこんで泥水を飲んでいるかの情けない自分がやっとすくわれたならば、こんな素晴らしい教えはどんなことがあっても伝えないとならないと思えるでしょう。

 ただ、伝えるには教学と信念や執念や文章力や会話力やコミュニケーション力など総合的な能力がある程度必要になります。(そんなものがなくても、勢いで御恩報謝せずにいられない気持ちばかりで私はお話ししている愚か者ですが)初めから自分には能力がないと諦めるか、それでもさせていただいている内に慣れて、何とか少しでもお役にたてるのではないかとする人など、それぞれの気持ちで動きます。

 実家は浄土宗で私は法然聖人を尊敬しております。父君を目の前で殺され、仕返しはしないように諭され僧侶になり、かなり長く色々な師匠のところで学び修業し、忍耐し、長いことかかって、阿弥陀仏に救われました。それからは来る日も来る日も布教を休まれませんでした。大原問答などで圧倒的な教学力を見せつけたりもされましたが、基本は弥陀の本願を一人でも多くの方々にお伝えされていました。私も見習わせて抱きたいと信心を賜る前からずっと尊敬しておりました。

 法然聖人は念仏を、親鸞聖人は信心を教えられたと小学校から高校まで習いました。日本人だったからこそ、こんなことが学べました。よく分からなかった私は、信心という言葉に惹かれ、念仏を称えないでも信じたときに救われる教えを信受したいと強く願うようになりました。中途半端な信心ではないだろうと思いました。徹底した信心とはどういうことなのか、そのあと何十年もそればかりを追いかけることになるとはその時は思いもしませんでしたが。

 今は、信心を賜り御恩報謝の念仏をよろこびよろこび称えさせていただく身となり、信心と念仏の関係もどうして法然聖人が念仏を、親鸞聖人が信心を説かれたと言われているかもわかります。
 どうか、知った覚えたではない、信知・信受した二度と戻らない信心を今ここで賜ってください。
 こう勧めてくれる人に直接聞きに行ってください。
 信心の沙汰という対話でなければ、余程縁の深い人でなければ、救われることはかなり困難でしょう。
 僧侶の方々は、まず自身が信心を賜ってください。それが出来たなら説法の後、信心の沙汰を門徒や学生にしてください。実地の訓練をしなければ、勘やタイミングは養われません。
感謝していること
 怠惰な私でもあれこれ御仏からご縁を賜ると断れず、なにやかやと能力もないのに動かされます。それは大変ですがよろこびでもあります。不思議です。