この世のことならたとえば、ビジネスでの成功、難関大学への入学などを成し遂げた人が割合たくさんいます。そしてその人たちが講演をしていたり、ハウツー本を出していたりします。
 目的を見失わずに、言われている、書いてある方向に向かって努力すれば、それなりの成果は得られます。

 しかしながら、真理には大きさも重さ影も形も匂いもなく、触れることが出来ず、写真にも写らないし、無いと思っている人には見つけることは不可能です。なぜなら、自分でふたをしてしまっているのですから。
 
反対に真理はあると思っている人でも、また蓋をしています。驚かれる方もあるでしょうが、真理との邂逅その時までその蓋は開きません。
別の表現をすれば、その邂逅の時というのは固く蓋を閉ざしたままの凡夫がそのまま真理と一体化した(すくい取られた)状態とも言えます。これは二元論では理解しえない不思議としか言いようのない体験です。

同じなら真理はあると思って、それに向かって生きていた方が真理との邂逅は望めます。真理などあるものかと全てが偶然起こっているものだというスタンスで生きていると、全てが自己責任であり、この世はやった者勝ちという自分勝手な生き方をすることになります。
どうせ死んだら何もない、無であるなら食べたい飲みたい楽がしたい五欲を満たす生き方になるのは当然です。

ところが真理というものが分からないけれど存在し、それとの邂逅の為に何度も生まれ、修業の身であるという考え方で生きている人もあります。
その中でも、過去世でもう寸でのところで命が終わったようなご縁が深い方なら、出来れば今生で迷いから覚めたいとなります。
真宗で妙好人といわれる人たちがその例なのかもしれません。
また、もうすでに真理との邂逅を済ませ、何度も衆生済度の為に仏などの聖者として、または人間として生まれられる方もあります。

結局、ご縁のある人が真理を求めるのです。ほかの人は一足飛びに真理まで考えが至りません。ただ、ご縁というのは本当に不思議で、真理など全く考えていなかった人が、ある人や物をきっかけに、求め出しあっという間に救われるケースも少ないですがあります。
法然聖人門下の熊谷次郎直実や耳四郎などは直ぐに救われた人といわれています。

とにかく、真理を否定しようと肯定しようといいのですが、真理との邂逅に強い関心があるかどうかが問題です。無関心なのが一番始末に負えませんし、縁手がかりが見つかりません。否定して謗る人も気になっているから、いろいろ言ってくる実は御縁の深い人たちなのです。
このことは世間のことでも言われます。たとえば、愛情の反対は憎悪ではなく無関心だと。信心のことをお話ししているときに、感動する人もあり、謗る人もありですが、一番厄介で避けなければならない人は無関心な人です。残念ですが、私は関心が持てるご縁がある時まで距離を置くことにしております。

このように真理は目に見えないものですが、ご縁の厚い人を感じる事は出来ます。同じ波動を出しているからです。波動という言葉を出すと誤解につながるかもしれませんが、御縁の深い方々は、温かい優しい感覚を持ち合わせています。ただし、そういう方々と出合うのは結構稀です。少数派なので、見つけたら寄り添って協力して真理との邂逅を目指したり、到達した後はお伝えする御恩報謝をさせていただける仲間となります。
御縁は不思議ですが大切にしていきたく存じております。

三次元に生きて物質的にまたは脳を活性化させて様々に学び工夫することしか私たち人間には思い浮かびませんが、真理との邂逅は次元を超えたものであり、二元論など役に立ちません。
 今、強いご縁があれば、すぐこの場で真理との邂逅は可能です。
 ただ自分以外の人に真理との邂逅をさせること釈尊や高僧方や他宗の聖人でもできません。ましてや私のような人間にはとてもできません。
 それでも自分が通って来た方向性だけは示すことが出来ます。それが、お経でありお聖教であり、説法であり、御示談・信心の沙汰といわれる会話による布教なのです。あくまでも方向性を示し、別の方を向いていないか確認する程度です。
 最後の最後はご本人と真理と対峙するしかありません。

 このことを間違うと、タダ話を聞いただけで救われたつもりになり、お経やお聖教や妙好人といわれる人達の言動と自分の「つもりの信心」の共通点を見つけて安心する残念で悲しいことになるのです。
 これらの人の特徴はある時は救われているように感じ、ある時はそうでないと感じるいわゆる仏教でいう「若存若亡」というものです。
 真実信心とは全く異なるものです。
 「仮城」とも言われます。救われていないのに救われた気になり、安楽椅子に腰かけている状態です。真理との邂逅を済ませた人にその椅子を叩き壊してもらう縁がないと臨終に泣きを見ることになります。

 では救われた人は、ほかの人といる時、または信心について書いたものを見る時、どう感じるのかというと、同じ心なら一味なら共によろこべます。そして違うなら残念なだけです。話を聞く耳を持っている人になら話して、ご縁を求めるように言い、真理の方向を示しますが、そうでなければ何もできません。表現を変えて言うと、自力の臭みが消えているとも言えます。
  既に助かってしまっているので、助かろうという気持ちが全くないので、むきになって相手と議論して打ち負かせようともしません。
 今生で迷いから抜けては欲しいけれど、こればかりはご縁が熟さない無理ということを自分の体験からもよくよく分かっているからです。
 また、自分のような弱くてつまらぬ怠惰で才能も何もない者が救われたのだろうかという不思議さに感謝して、この御恩を少しでもお返ししたいと、微力ながらも真理との邂逅をお話しさせていただいたり書いたりしていきます。

 子どもは6歳で自分の力が真理との邂逅には全く間に合わなかったと知らされました。ご縁が深い頓機であったのでしょうが、そういう例はないこともないです。
 だから、老若男女差別なく、才能も社会的地位も何もかも関係なく、今、真理との邂逅を望めば、それはきっと叶います。
 今救われてください。ご縁のある方に伝われば幸いです。
感謝していること
 今年は尊い恩師のお蔭で、イギリスの真宗会議にも参加でき、いろいろ見てくることが出来ました。尊い仏縁の方ともたくさん出合えました。御仏の御加護と有難く感謝しております。