英語の単語・イディオムがわかれば、文型がわかれば、外国人と意思の疎通ができるものと簡単に考えていました。
 いざ、メールのやり取りをすると、お前の英語は分からないと言われ、先生が見るに見かねて、英国人に出す前に私に英文を送ってくれたら、それを添削しますから、そのようにしてくださいといわれ、送りました。念のために日本語も付けて送りましたが、日本語も分からない所を指摘されて、かなり落ち込んでしまいました。
 日本語すら相手に分かるように書けない自分に修士論文が書けるのだろうかと不安になってしまいました。

 大学院で提出したレポートも感想の域を脱することができず、例示した事柄も分かりにくいと言われ、それはとても悲しく残念でした。
 起承転結の形を取っていても、論理の飛躍があったり、例が適切ではなかったり、分かりにくかったりでは論文どころかレポートにもなりませんと言われ、ショックを隠せません。

 5年間に気ままにエッセーなどを3000くらい書いていましたが、果たして初期の頃より文章が上手くなっているのかどうかもよく分からない状態です。
 文章の内容には、たくさんの共感や反応がありますが、文章自体が分かりやすいのか上達しているのかは自分では分かりません。
 誰かの力になれたのか、ただの駄文で紙面を汚しただけなのかいまだに藪の中です。

 もちろん、御仏のことを書いてきたことには、それが稚拙だったにせよ後悔は微塵もありません。分かる人には分かるし、きづきのヒントになっているかもしれません。私が書いた以上のことを知らされた人もあるでしょう。

 しかしながら、喩や表現が適切でなかったり、分かりにくかったりしたのでは何のこともありません。
 現代の言葉で、分かりやすい例で御仏の願いをお伝えしたいと書いているのに、能力がなくて御恩報謝がなかなか進まないことを悲しく感じます。
 共に御仏の素晴らしいことをお伝えしようという人が出てこないのも私の懈怠や能力不足のせいかもしれません。

 世にある難しい哲学よりも何よりも、浄土仏教によるただ御仏を信じることでのみ救われる教えを、お伝えすることを人生から問われている使命と生きているのに、それが何もできず、一体私は何をしているのか。
 無駄に生きていることを本当に申し訳なく感じます。
感謝していること
 久しぶりに友達に逢ってランチをしてたくさん話をしました。いろいろなことを教えてもらいました。