物心ついた時から、何で人生はこんなに辛く苦しいことで満ち溢れているのだろうと不思議でした。
 自分は自分であって、等身大のただの子どもでいいし、威張る必要もないのに、周りは嘘や駆け引きや自分の得をすることばかりに気を取られています。
 
 幸いおばあちゃんや周りのほんのわずかの人たちが人に施し、勇気付ける言動をしていたので、それを真似しながら、楽しい気分でいるように心がけていました。
 嫌なことを考えようとすれば、いくらでも苦しみの種はありますが、それは放っておいて楽しいこと、綺麗なこと、感謝されることを考えていました。

 それでも、否応なしに周りの争いに巻き込まれたり、意地悪やストレスのはけ口に狙われそうになったりを、潜り抜けて、そういう自分を上の方から客観的に見ることで何とか死なずに耐えてきました。
 
 おたおたしている自分、めそめそしている自分、怖くて震えている自分、心無い言葉に悲しんでいる自分、我欲や無知を振り回す他人の中でそんなもの要らないと叫ぶ自分、自分たちだけで秘密を持ち特権階級を気取る人たちにそんなことして何が嬉しいと冷ややかな目を持つ自分。

 周りを見ればみんな浮かれて楽しそうです。
 どうしてあの人たちは世の中の嫌な部分を自ら実践していて、人を悲しませたり、苦しませたりしているのに楽しいのだろうと不思議でした。
 今になって分かったのですが、意地悪、いじめ、秘密を持って知らない人に優越感を持つなどする人たちは、それが心地よいのです。思いやりのないことに麻痺してしまっているのです。
 空気を吸うように理不尽なことでも特権を持っていると勘違いして好き放題します。

そこには自分を後回しにするとか、譲るとか、感謝するという感覚はありません。自分さえよければ人はどうなろうと構わない無慈悲な心があるだけです。
 それを恥じることもなく、みんなそんなことをしていると思い込めるのです。
 
 実際は、みんなそんなことはしていません。
 哀れみや悲しみを乗り越えた人たちは優しく思いやりがあり、自分の用事を後回しにしても、目の前で困った人があれば助けてくれる人もかなりいるのです。
 そういう人に遇えなくて、地獄や餓鬼界のような暮らしが当たり前のようになっている人にいくら、慎みや謙虚さや自分は後回しと説いて回っても、反発され、邪魔され、言葉や心身への暴力を受けるだけです。

 私はモラハラを研究しており、被害者の力になる覚悟をしてその手立てを学んでいる途中ですが、モラハラが起こる原因の一つはパートナー同士の心の住む境涯が違うところから発生するのかもしれないと感じます。

 人と分け合い、分かち合い、自分を後回しにする人と、我先に自分の取り分を取り、あわよくば人の分まで横取りして、たくさん物を集めて、他人にそれを威張っている人とでは生き方の方向性が違います。歩み寄れるはずがありません。一緒に入られないのです。
 特にパートナーの親と折り合いが合わないのはこのようなことが深く関係しているのかもしれません。親と子は環境が同じでも違った人格なので、親に対しても連れ合いと同じ感覚を要求してもそれはことなることがおおいのでしょう。自分が未熟で見習いたいという親なら、年下の者がよくなりますが、反対の場合は距離を置くしかありません。

 それでは、不幸なこと辛いことが全て自分にとって悪い事かというとそうではないと、救われてからは感じます。
 悲しみ、苦しみがなければ、御仏の願を賜ろうなどと、煩悩にまみれた私は思いもしなかったでしょうから。
 我欲、無知、与えることを知らず奪い合う人たちの中で、一番になる競争に嬉々として参加し、嫌な思いも感じるセンサーも壊れ、傲慢さや自惚れの臭みのも鈍感になり、六道輪廻の迷いをずっと繰り返していたに違いありません。それではだめだと色々な苦しみ悩み悲しみのご縁をわざわざ与えてくださったとしか思えません。

 絶え間なくやってきた艱難辛苦のために、尿が赤くなり髪が抜け落ち、今死んだら楽になると思ったことも数えきれないほどあります。それを言っても栓がないので敢えて言いませんが、そこまで追い込まれなけれが、御仏に向かえない愚鈍な我が身でした。
 それらの身を切るような煩悶が救われてからは、一つ一つが有難く感謝できるようになったから不思議です。

 あの時あの人が虐めてくれなければ、仕事が大変なことにならなければ、身内に合わない人がいて苦しまなければ、おそらく世間に迎合してずっと迷いの世界で溺れているのに浮かれていた事でしょう。
 あの人たちは、きっと仏さまが遣わしてくださった菩薩さまたちだったのかもしれないとさえ思えます。

  どうか、みなさまも一日も速く、御仏の願を信じて、このような身に救われることを念じて止みません。

感謝していること
 一緒に御仏に救われたことをよろこべる人がいることはこの上もなく嬉しいことです。御仏のお名前を称えながら、あの人たちも御恩報謝の日々を送っているのだと憶えることは何よりも有難いです。