生きていたら様々な人や物との出合いがあります。
 その時は何でこんなことをしないといけないのか、辛い、苦しいと感じることも、ずっと先になるとあのときのことは、全てが今の自分の糧になっているとわかる時がいつか来ます。
 臨終にはその人の一生が走馬灯のように見えるらしいのですが、その時に最終的には全部わかるのでしょう。

 ただ、臨終にそれらを見て満足な人生だったというのならまだしも、シンクロニシティに気が付かず、チャンスを生かすことが出来ず後悔するのだけは残念です。
 だから自分に起こっていることを一々、佳いとかそうでないとかで評価しないで、これらすべては、人生から自分に求められていることなのだと受け止めてそれらと対峙していくことが肝要です。

 自分が何をしたいのか、自分の欲を満たすことを優先させず、人生から求められる使命を果たすことに専念していったら、愚痴や不平不満は消えて無くなるでしょう。
 自己満足という自己欺瞞やこれも自分の為の欲でしょうが、人から悪く思われないために自分の志や使命でないことをしてしまう甘さも認識され、止めることが出来ます。

 根幹がしっかりしていたらぶれないし、この人生での自分に課せられた役割を果たすことに専念できます。
 そこまで全部が見通せ、自己を客観視出来たら、人生はほどほどに悪くもないかなと感じられます。

 某真宗系宗教団体の話を30年間、聞きに行っていたことを後悔しておりましたが、最近これも通らなければならない道であり、意味があったのではないかと振り返って考え出しました。
 某大学で文学や宗教を教えていらっしゃった先生の御著書を最近進呈していただいて、拝読する御縁がありました。
 驚くことに、その本の中には私が30年間聞いてきた話がびっしり詰まっていました。

 宗教団体の会長や組織は尊敬できないものであったのですが、話されていた内容は玉石混合であったのだと気が付かされました。
 そして、途中までは本当に多くの人に早く信心を賜って欲しい気持ちが会長にもあったのだとも感じております。
 ただ、教学を勉強できる場所や友だちという御縁もなく、お山の大将になってしまい、イエスマンに囲まれる中、五欲を求めることに夢中になり、いつの間にか初めの志がなくなってしまったのではないかと気の毒にもなりました。

 振り返ると、確かに彼とは、救われて欲しい、助かりたいとの気持ちで、白兵戦も何度かしました。
 しかし、彼の能力不足なのか、私の縁が熟していなかったのか、それとも救われてから、こんな話をするのだと勉強するためにその会にいて聞いていたのかどれかか、全部なのか分かりませんが、私はそこでずっと話を聞くことになっていたのでしょう。

 今頃になって、救いのお話をさせていただいているとき、その当時聞いていた話を無意識に話ている自分に驚いたりしています。
 今はアウトプットする状況ですが、同時に無性に浄土三部経や七高僧方や蓮如上人のお聖教が懐かしくもあり、有難く拝読させていただいております。
 そして暇さえあれば、善知識方がなされたようにお念仏を称えさせていただいております。

よかったこと
 諦めることがどんな場合でも大切だと知らされます。