自分を実際より大きく、重要で、有能、又は優しい人物だと見せたがる人たちの心の奥底を熟考していくと、怖れや不安からくる劣等感を取り繕うことに終始しているのだとわかってきました。

 自分をよく見せたい人たちは表面上は与えるふりをして、結局他人に自分は重要人物であるから大事にするようにという無言の自我のエネルギーの圧力を押し付け、相手の持つエネルギーを奪い取って自分の方が偉いんだと思い知らせている気がしてなりません。
エネルギーが循環することなく、相互のやり取りにならず、つまり交流が起こらず滞るので、関わると消耗して、へとへとに疲れ果ててしまいます。
取り繕うことをしなければ、自然なギブアンドテイクのエネルギー交換になり心地よくいられるのに。

 元々人間相手でなく、御仏の方を向いて生きてきた私にはずっと、この威圧感や不自然さが理解できませんでした。何でこんな回りくどいことをするのだろう、 本心と言動にギャップがあるのだろう見抜かれていて、自分も周りも苦しいのにと感じてきましたが、みんな暗黙の了解でしていることなのだから、あえて黙って何も言いませんでした。

 ちょうどプロレスがショーの要素があることをみんな知っていて、どちらが勝つのか、途中悪役がどこら辺で反則をして試合が終わるのかなどみんなが知っていても、誰も何も言ないのと同じ感じかもしれません。

 一人の人間と向かい合うときに、他人はその人本人と心を通わせたいと思っても、その人自体が自分の職業や財産や地位などを気にしていると思いがちです。だからか知りませんがいろいろなものを自慢します。自慢するものがないとこんなに自分を大切にしてくれる素晴らしい家族や友だちがいると誇ります。

 いざ死んでいくときに、それらは何の明かりになりますか。
物質的なものも肩書も意味がなく、周りの人たちも一緒には死んでくれません。何一つ当てにならないものを自慢して誇って何になるのでしょうか。

 それでは、信仰があれば安心でしょうか?
これも全く疑いなく大いなる力を信じることはむずかしいのではないでしょうか。
臨終になっても絶対変わらない真理や本物の仏や神といわれるものとのハッキリした邂逅(廻心の体験)を生きている間に済ませ、疑いを一切入れず信じ切ることが出来るのでしょうか。
 信じる方法に3種類のレベルがあります。
①条件付き←証拠を見せたら、この条件がクリアできたら信じる
②盲目的←思考を停止して信じる、マインドコントロールなどもこれかも
疑うことを拒絶し、自分の信じたい気持ちに固執している。
なぜ信じたがるのかを突き詰めれば、ただ単に完全に信じることができずにいるだけ
③無条件←信じるというより、知っているという感じ。
知っているんだから疑わないし、一喜一憂せず、その都度失望もしない。

 何とかして救われたい、どうしたら救われるのだろうと疑うという気持ちがまだあるうちは完全に信じられていません。
 「救われたい」というのはまだ自分が何かできるという気持ちで、完全に全てを手放した状態ではありません。  
 救われるために、自分自身の中の力でまだ、何か間に合うものがありますか?残っていますか?  
 自分の頭の中で作り上げたあいまいであやふやな神様・仏さまなどキッパリ捨ててください。  
 そんなもの始めから何にもなかったんですよ。
 いなかったんですよ。
 そう、何にもないのがさとり、救いの本当の世界です。  
 さとりや救いは「絶対無」なのです。

 いいですか、真理というものは、本来、色も形も匂いもないんです。
 自分での頭でこねくり回して作り上げたものは、臨終にはあて力にならない偽物なんですよ。
 これを完全に消去できなかったら、真理と一体にはなれないんですよ。  

 自分の力が全て間に合わない、自分が力尽きて途中、何もつかむこともできず、どん底に堕ちて、そこでピクリとも動くことはない、二度と起き上がれないことにきがついた時、それが救いです。  
 もう何もつむもの、握って頼りにするものもないのですから、これでお終いです。
 何もできない=何もする必要もないのです。
 逆説的ではありますが、全ての不安から解放された、世界がそこにあります。

 地獄か極楽かどちらに行くかわからないハッキリしない状態のときは、何とかすれば少しでもいいようになれるのではないかという自分を頼む心が、そこに厳然として存在する真理を素通りして、延々と迷いを繰り返すのです。

 自分の力が一切、間に合わないのなら、何もできないのだから、もう地獄に行こうと極楽に行こうと関係ないんです。
 どうすることもできないのですから。どちらでもいいんです。後はおまかせなんです。

 ここまで潔く、自分の力が間に合わないことを知らされた信じ方をする体験は自分ではできません。信心は真理の方から飛び込んできます。自分の力が尽き果てたときに。
 まだ何かできるという余力が残っている内は無理です。

 「今、私は、救われています。有難うございました」という心境がになり、変わらない安心満足に常にいられるのが本当に救われた人なのです。

よかったこと
 今日の投稿記事を読まれた人が、誰か一人でも救いを賜ったら嬉しいです。