みなさん、なぜ私が僧籍を取って寺などで説法しないか不思議に思っていませんか。
なぜ、このように対話によるあまり専門用語を使わないような対機説法にこだわるのかと。
 御示談・信心の沙汰というのは、お聖教に書いてあることの解釈を誰かが質問してそれをこたえるのではないかと思っていませんか。
 信心の沙汰のことを僧籍を持たないものがするというと何となく怪しい、「土蔵秘事」のような機責めのような怖い印象を持つ人もいるかもしれませんね。

 信心を賜ってからの4年半、どうしたら、多くの人により早くこの信心を伝えられるかといろいろ考えたり、たくさんの人の所に会いに行ったり、本を読んだりもしました。それと並行して、毎日のように口頭やネットでお伝えしてまいりました。

 昔かじった哲学や大好きだった漱石とかの文学も読んだりしてみました。通信の大学の3年に編入して心理学を学び「認定心理士」の資格も取りました。それはすでに持っている教員免許とプラスして心理的な側面を補足するためでしたが。
 いろいろしてみて、私に一番向いているのは書くことだと判明しました。しかしながら、時間がないので短くまとめられず文章が長文になってしまいます。また、書っ放しだと自己満足になり、相手が分からない所でもそのままになったり、ひどく誤解されて物別れになることもあり、とても残念なことになったこともあります。
 
 最近はチャットが一番性に合っているかとも感じます。結構キーを打つのが早いですので。しかしながら、自分はそのままを打っても、相手さまは考えながら打つ人もあり、訂正も出来るので、対面や電話よりも歯痒いところがあります。せっかちな私は、相手さまが打つのが遅いとイラッと来ることもあり、疲れているときは話の方がいい時もあります。
 
 一方、対面や電話だと話以外のお互いの様子などに気を取られ、なかなか本筋に集中できない所があり、どっちもどっち、相手さまによりけりでしょうかね。外であう時間がなかったり、家族がいて通話が使えなかったりする場合はチャットは便利です。
 通話も無料ということでスカイプを利用していましたが、最近はfbのコメントでのチャットが文字も大きく見えるので便利で多用しています。

 初めの頃のチャットの沙汰はガチガチの宗教の単語ばかりのものでした。それがどんどん相手さまの興味に沿って話せるようになって行きました。今はキリスト教など他宗教の方でも対話が可能になりました。

 宗教を前面に出さない大きな根本的な理由は母方の従姉妹のよう子ちゃんにあります。
 彼女は私にある時言ってきました。
「ちえちゃん、ちえちゃんが聞いているお話を私も聞きたいから聞かせてね」
 よう子ちゃんは関東、私は関西に住んでいたので都合がつかず、なかなか会えませんでした。
やっと時間を作って夏休みに実家で合えたのですが、そのときは元いた会のアニメを見ながら話したのですが、まだ救われていませんでしたので説明が出来ませんでした。
 そのあと郵便で会長の書いた本を送ったのですが、難しくてわからないと実家に帰しに来たそうです。

 その数年後、よう子ちゃんは40手前であっけなく夭逝してしまいました。
 そのときは救われていて、ほかの人にも信心を賜る話が出来ていたのでとても悔やまれました。
 私はずっと何日も泣き続けました。こころの中でごめんねと言いながら。
 このときから、仏教が分からない人にも、他宗教の人にも、外国の人にも本当に救われたい人があったら話がしたいという気持ちが湧きあがっています。
 今から考えると、よう子ちゃんは仏さまの化身で、私に布教の炎を絶やすことのないように強いインパクトを与えてくれたような気もします。(つづく)