胡散臭いと思われるのは、先祖の霊・守護霊がどうこうとかいう人たちです。
幽霊が見えたり、話したりできる人もいるらしいですが、ただ宙返りが出来るとか、視力がいい、絶対音感があるとかいうようなものだと私は感じます。
それが出来たから何?
こんな感じです。
それで自己満足してしまっては何にもなりません。才能は他人のためにどう生かすかでしょう。
病を持っている人の気を整えて治すとか、指先からエネルギーを出すとかいうのはできる人もあるのかもしれません。
どちらかというと、病気を持っている人の気持ちが問題ではないでしょうか。
怪我など以外は、その人にとってその病が必要だから罹っているので、不要になったらいつの間にか治っているように感じます。
仮に何も出ていなくても、気功やエネルギーを当てたからと言われて、信じて治ってしまう人もあるかもしれません。
それほど人間の思い込みというのは強いこともあります。
宗教で霊視とか病気を治すことをうたい文句にしているところは、私は疑い、どうしても避けてしまいます。
確かに遺伝で病気を引き継ぐ場合もありますが、先祖や動物の霊がついて悪事を働き悪さをして、本人の人生を左右することは信じられません。
百歩譲ってそんな悪いものがあったとしても、真理や御仏が護ってくれますので、逃げ出します。
幽霊が見えたり、話したりできる人もいるらしいですが、ただ宙返りが出来るとか、視力がいい、絶対音感があるとかいうようなものだと私は感じます。
それが出来たから何?
こんな感じです。
それで自己満足してしまっては何にもなりません。才能は他人のためにどう生かすかでしょう。
病を持っている人の気を整えて治すとか、指先からエネルギーを出すとかいうのはできる人もあるのかもしれません。
どちらかというと、病気を持っている人の気持ちが問題ではないでしょうか。
怪我など以外は、その人にとってその病が必要だから罹っているので、不要になったらいつの間にか治っているように感じます。
仮に何も出ていなくても、気功やエネルギーを当てたからと言われて、信じて治ってしまう人もあるかもしれません。
それほど人間の思い込みというのは強いこともあります。
宗教で霊視とか病気を治すことをうたい文句にしているところは、私は疑い、どうしても避けてしまいます。
確かに遺伝で病気を引き継ぐ場合もありますが、先祖や動物の霊がついて悪事を働き悪さをして、本人の人生を左右することは信じられません。
百歩譲ってそんな悪いものがあったとしても、真理や御仏が護ってくれますので、逃げ出します。
心が弱くなった隙をついて、色々なものが悪さをするように思い込まされているのかもしれません。
病気に罹って死ぬのも、生まれる前にそのようにプログラムしてきたのなら寿命でしょう。じたばたしても死ぬときは死にます。
だったら、病気に意識を向けてと闘うより、仕事を止めて残りの時間を精一杯生きていったらいいでしょう。治療と同じ時間やお金をかけるなら、旅行に出たり、遠くの友だちに会いに行ったり、好きなことをしてゆっくり過ごすと治ってしまうこともあるようです。
それと威張った尊大な謙虚さのない人が教祖や会の代表なら、そんな人と接していると、態度は移りますから離れましょう。
千人とか1万人とか、ある程度の人数の人と接すると、相手の器の大きさはその場で即時に感じることが出来ます。
もし、その人が小さな人物で、年齢よりも老け込み、清潔感がなければ得られるものはないでしょう。
繰り返しますが、教祖が何を言っているかより、何をしているか、謙虚に会の人たちに向き合っているか、末端の会員とも平座で話をしているかなどよく観察してください。
講師や会員に多額の布施をさせ、自分は贅沢な生活をしているとか、大きな家を何軒も持っているとか、ほとんど使わない別荘があるとかいろいろなことを調べましょう。
会費に5千円も1万円も取るのは、布教のほかのことに使われている可能性があります。新聞などの印刷物の送付なら千円でもおつりがきます。
会の職員などの給料もあるのでしょうが、教祖の講演の中から出せる範囲でしたらいいのではないでしょうか。講師も会からの給与で暮らせるほど保障され、そのほかに自分の講演料でやっていったらいいでしょうし。
会館など建てず、その地域ごとに自分たちでお金を出し合い、どこか借りたりいろいろ節約してしたらいいでしょう。いろいろ手を広げると、元々の目的がどんどんあやふやになって、活動のための活動になってしまいます。
真理を体得する以外の目的のものは、宗教とは私は認められませんし、不要だと感じます。
生き方を探求するなら、それに特化して、宗教色をなくしてそういう集まりと銘打って活動したらいいだけです。
教祖のさとったところまで、みんなもいっしょにさとりましょうとかいっていながら、教祖のほかには誰も同じ心にさとった人がいないというのはインチキとしか感じられません。
教祖以外にもどんどんさとった人が出てきて、その人たちが教えを伝えていくのが本来のあり方ではないでしょうか。
一般の宗教と呼ばれるものには、色々な疑問や怪しいところがたくさんあります。
大切なお金を取られないように、時間を無駄にしないようによくよく自分の頭で考え、色々な所から情報を取り入れて、もう一度調べるように、みなさんの周りの人には言ってあげてください。(つづく)
病気に罹って死ぬのも、生まれる前にそのようにプログラムしてきたのなら寿命でしょう。じたばたしても死ぬときは死にます。
だったら、病気に意識を向けてと闘うより、仕事を止めて残りの時間を精一杯生きていったらいいでしょう。治療と同じ時間やお金をかけるなら、旅行に出たり、遠くの友だちに会いに行ったり、好きなことをしてゆっくり過ごすと治ってしまうこともあるようです。
それと威張った尊大な謙虚さのない人が教祖や会の代表なら、そんな人と接していると、態度は移りますから離れましょう。
千人とか1万人とか、ある程度の人数の人と接すると、相手の器の大きさはその場で即時に感じることが出来ます。
もし、その人が小さな人物で、年齢よりも老け込み、清潔感がなければ得られるものはないでしょう。
繰り返しますが、教祖が何を言っているかより、何をしているか、謙虚に会の人たちに向き合っているか、末端の会員とも平座で話をしているかなどよく観察してください。
講師や会員に多額の布施をさせ、自分は贅沢な生活をしているとか、大きな家を何軒も持っているとか、ほとんど使わない別荘があるとかいろいろなことを調べましょう。
会費に5千円も1万円も取るのは、布教のほかのことに使われている可能性があります。新聞などの印刷物の送付なら千円でもおつりがきます。
会の職員などの給料もあるのでしょうが、教祖の講演の中から出せる範囲でしたらいいのではないでしょうか。講師も会からの給与で暮らせるほど保障され、そのほかに自分の講演料でやっていったらいいでしょうし。
会館など建てず、その地域ごとに自分たちでお金を出し合い、どこか借りたりいろいろ節約してしたらいいでしょう。いろいろ手を広げると、元々の目的がどんどんあやふやになって、活動のための活動になってしまいます。
真理を体得する以外の目的のものは、宗教とは私は認められませんし、不要だと感じます。
生き方を探求するなら、それに特化して、宗教色をなくしてそういう集まりと銘打って活動したらいいだけです。
教祖のさとったところまで、みんなもいっしょにさとりましょうとかいっていながら、教祖のほかには誰も同じ心にさとった人がいないというのはインチキとしか感じられません。
教祖以外にもどんどんさとった人が出てきて、その人たちが教えを伝えていくのが本来のあり方ではないでしょうか。
一般の宗教と呼ばれるものには、色々な疑問や怪しいところがたくさんあります。
大切なお金を取られないように、時間を無駄にしないようによくよく自分の頭で考え、色々な所から情報を取り入れて、もう一度調べるように、みなさんの周りの人には言ってあげてください。(つづく)
