自分の力ではもうどうしようもない、大いなる力に身をゆだねようと、真理によって、導かれた時、「きづき」の瞬間がやってきました。

 それまでは、自分がこうしたら、ああしたらと何かすることを考えて、小手先のことをこねくり回していました。

 幼児がお風呂の中を海に見立てて、波を起こしているようなものかもしれません。自分の力を過信して、とてつもないことが出来るように思い込んで、やっているのですが、それは大海原ではなく、家の中の小さなただの浴槽なのに。それが分かりません。

 幼児にとって、これは、目的のない遊びなのかもしれませんが、私が長年救われたいと思ってやってきたことに似ています。

 本人は必死でやっているのですが、結局小さな世界をくるくる回っていただけでした。

 それが一切役に立たなかったことは、救われた時に初めて分かりました。

 何で、あんなに無駄な時間を過ごしてきてしまったのだろうかと後悔したこともありますが、それはそれです。

 「きづき」には役に立ちませんでしたが、人間の営みを考える時、参考になることもあります。

 

 例えば、不登校やニートやうつ病か何かで、学校や勤めにいけない身内がいたとして、本人はとても苦しいのですが、中途半端なうちはああでもないこうでもないと、こちらが干渉すればするほど反抗したり、余計引きこもりますが、今は学校や会社にに行かなくてもいい、本人が苦しんでいるのだから、本人の好きなようにさせようという気持ちに変わって、自分の心を手放した途端に、本人が何らかの方向に動き出したということをよく聞きます。


 あれこれ周りが言っても、何も変わらない、一切、手を引こうと思い切ったとき、変化がおきます。(人間の身内の場合、衣食住の世話はしないとなりませんが)

 結局は自分で何とかしないとならないのだから、本人がすることを見ているしかないのですが、ついつい手伝おうとしてしまう気持ちがあります。その気持ちも全く無くなって、ただひたすら本人の幸せを願えたら、その時から解決が始まるのでしょう。


 アドバイスやせかすこと声をかけることが役に立つと思って色々するのですが、それが逆効果になりことが、渦中ではわかりません。

 見守ることにして、本人が動き出した時に、かなりのプレッシャーをかけていたばかりで、改善には、意味の無いことであったと、分かります。


 ただ、頭で考えていて分かっていることと、実際無駄なことをたくさんして、全部駄目だと知らされたことでは大きな違いがあります。

 無駄な時間が長い人も短い人もあるでしょうが、「きづいた」ときに、役に立たなかったという思いが出てくるのは同じです。


 人は自分の心にことっと落ちるような、納得の仕方、気付き方がないと、よろこんで前に進めないのかもしれません。