どうしても、私には無理、もうこれ以上教えが、聞けない、もう何もこの人から獲るものが全くないと感じた時がありますか?

 そして、人間としても、もう二度と関わりたくないとまで思ったことがありますか?

 私は、約二年前に30年近くいた某宗教団体に見切りをつけました。

 これは、その時の心情です。


 宗教など、心の問題を説く人が信じられなくなったら、私はすぐ離れる事をお勧めします。

 もう無理です。

 その人のやっていることが、自分の価値観と違っていたら。

 

 信じるものに、自分がにじり寄っていくのではなく、信心は御仏が下さるものであり、私たちはそれをそのまま賜るのみです。

 「御仏にそのまま、まかせて下さい」と勧めてくれる方が真実を説くお方です。

 その役目を放棄したり、違う事を言っている人からは、残念ですが、速やかにきっぱり離れないとなりません。


 そうは言っても、あの人が御仏の救いを説いていてくれたから、聞きにいける団体を作ってくれていたから、私は救われたんだしという気持ちも痛いほど、分かります。

 昔は仏様に向かうようにと、言っていたかもしれません。

 それなら、今、その人は、昔と同じ事を言っていますか?

 昔と今と違う事を言っていたなら、その人は、同じ人の皮を被った、別人になってしまったのです。

 

 御仏の救いにあずかった私には、無常が迫っているのに、なぜ団体からスッパリやめないのだろうと疑問を感じます。

 1円でも出したお金が、その団体を増殖させる助けになると思ったら、絶対出せません。


 大筋はあっているけれど、見解が違うだけではないのです。御仏の救いでなく、教祖の救いを求めるように心理誘導しているのです。

 御仏に向かわなかったら、救われるはずはありません。

 

 それなのに、自分に向かうように言っている教祖は、御仏の救いへの梯になるどころか、その梯子を外して、破壊してしまっているような憎むべき存在です。

 それがわからないので、いまだ、その宗教団体に所属して、依存しているのでしょう。


 それから、同じように救われるように勧めている人でも、今日、今、救われて欲しい、という気持ちが薄い人から、聞いていると暇が掛かります。

 能力ではありません。

 目の前にいる人の、まさにその人の幸せを、念じるの想いから来る力を、感じられる人を自分で探して、聞きに行くしかありません。

 色々な人から聞いてもいいですが、この人と思ったら、縁を逃さない事です。

 自分もその人も、いつまで生きているか分かりません。遠いところにいってしまうかもしれません。


 救われたと自称する人は、たくさんいるかもしれませんが、相手の幸せを念じるその想いと、伝える能力を兼ね備えて、さらに自分と縁のある人を、探して、探して、探し抜かれることを念じて止みません。


 最後は、御仏におまかせですが、そこまでは、自分にとって、佳き人に出来るだけ早くであえると無駄な事や、気を揉むことをしなくていいかもしれません。

 人間関係で苦しむ事もないかもしれません。