信心に限らず、何にでも共通するものだと思いますが、自分さえ良ければ、何をしても構わないでいられる神経が分かりません。

 自分が信心を獲たいが為に、宗教団体に反対する家族を無視して、教祖の話を遠くまで聞きに行ったり、人を誘いに行ったり、生活費を献金することはおかしいと昔から思っていました。

 

 自分の家族すら犠牲にして、不幸にしているのに、自分だけが幸せになれるという発想がおかしいでしょ?

 自分の家が火宅で、家族が空中分解してるのに、他人を宗教団体に誘っている自分て何って考えないのかな?

 私なら、たとえサトレナクテモいいから、家族と毎日を楽しく過ごす方を選択するけど。

 

 宗教団体の目標に追い立てられない、平凡で慎ましい生活をしたことがないのかな?

 地獄に行くなら行くで構わないし、死んでみないと分からない。

 死なないと分からない、不確実な未来の為に、いま家族がギクシャクして不幸のどん底でも、平気で、耐えられ、カルトを貫けるヒトって何なのだろう?


 今、この瞬間、自分が自分がという、自分勝手な考えを捨てて、御仏にうちまかせたらいいのに。

 それが出来ないから苦しいのでしょうが、分からないでしょうね。

 余りに痛いし、見ているだけで辛くなります。

 

 こんな風に痛くて、辛く感じるヒトとは、続く縁ではなかったのかもしれません。

 きっと、形は同じように、何も言わないでも、一方はしっかり、分かり合える人が一杯いるのかもしれません。

 外国の人でも、きっともっともっと、意思の疎通があるように思えます。

 少なくとも、カルトに嵌った家族よりずっと。


 やっぱり、こんなに弱い私には、もっと人に影響を与えられる、身分や智慧や才能を一杯持って、生まれてくるプログラムの方が、よかったのかもしれません。

 思いはあるのに、何にも持っていないし、出来ることもなくて、空回りで、ただ閉塞感だけがあって、非常にアンバランスです。

 それが、修行と言えばそうなのでしょうが、余りにも、辛すぎてもういいかなって思います。


 どこか、湿気のない温暖な気候の国で、余生をのんびり過ごしたいです。

 今まで、結構、私なりに頑張ってきたんじゃないかと、自分で自分を褒めて、認めてやらないと、すごく惨めで可哀想。

 本当にここまでよくやってきましたね、わたし。

 

 もう、何も無理することないよ。十分でしょ?

 これからは、流れに任せて、自由に好きなように、生きたらいいよ。

 どんなことがあっても、いつだって、あなたの味方でいるから安心して。

 苦しみ、悲しみは、皆、私が引き受けますよ。

 そう言って下さいますよね。