「~したい」では、いつまで経っても望んでいるものは求まりません。

 特に精神的な覚りや安らぎなら尚のことです。

 欲しいものを、今獲ることを、無意識に遠ざけているのです。


 「いつか~したい、なりたい」ではいつまでも、その心境にはなれないことに気が付いて下さい。


 今ここに、既に、あなたが、そうなりたいものは現存しています。

 それを受け取れていると、気が付かせて頂いた状態を、人は覚りと呼ぶのでしょう。

 なぜ、気が付かせて頂けないのでしょうか?

 余計なものを握って放せないでいるか、自分の頑張りや、迷った思いが充満して、受け入れるスペースがなく、御仏の尊い仏心を撥ね付けるからかもしれません。

 固く蓋が閉まっていて、入らないのかもしれません。

 いづれにしても、今は受け付けられないのでしょう。


 そこまで、ヒトは迷いが深く、自分をあて力にします。

 自分なんかと口では言っても、それはただの謙遜であって、自分への執着には、根深いものがあります。


 それなのに、何の不思議か、御仏の心が届いて下さったことは不思議の中の不思議です。本当にそんなことは、ありえないことのように思えます。

 あれ程、希って、欲しい欲しいと思っていたことは、自分の力で受けとることは叶いませんでした。

 自分のやってきたこと、全てが無駄、無意味でした。

 結局、私は何も出来なかったのでした。

 全て、何から何まで、御仏が用意して下さって、それに気付かさせて頂きました。ただ、それだけだったのです。


 一生懸命何かやった事が、間に合ったのでもなければ、必死にやって出来なかった事が知らされて救われたのでもありません。

 私が何かしたからということは、一つも当てはまりませんでした。

 ただ、ただ、御仏の方からのこの上もない贈り物を賜っただけです。

 

 あんなに毎日毎日、欲しい欲しいと思っていたのに、賜ってからは、そういえば、救われているんだ、有難いと思い出したように念仏するそんな怠惰な有様です。それでも、不安は何一つないのが、また不思議です。

 仏様の御心が私と一体になって落とすこともないし、無くなりもしない、消える事もないのです。

 それこそ、御仏とご一緒させて頂いているのが、日常であり、当たり前になってしまっていると言った方が、いいのかもしれません。

 どうして、そんな身になれたのか考えても分からないし、本当に不思議で有難いです。


 カルトに迷った家族は、そういう業を持って生まれてきたのだし、その家族の非道が縁で、カルトを抜けられ、御仏に向かえたのは皮肉ですが、それもまた有難いとも、いつか思えるといいのですが・・・・・・。