自分は罪深い人間である。

 いったい誰が、教え込むのでしょうか?


 もしかしたら、親かもしれません。

 生れ落ちた家が、規則ばかりで窮屈で融通の利かない、押さえつけるところだったのでしょうか?

 そして、規則を破ると罰が待っているような。


 なかなか、子どもで規則を守り続けるのは困難なので、いつも怒られたり、罰を与え続けられたり、したのかもしれません。

 それがトラウマになって、規則を守ることで、誰かの期待に応えることで、人から嫌われないように生きてきたのでしょうか?


 ただ、大人になるまでには、たくさんの出会いがあります。

 その中で、無理のない人、ものをチョイスすることはいくらでも出来た筈です。

 自分で、気が付いて方向転換することも。


 人間に生まれてきたのが、初めてだとしたら、タイトな親の下に生まれた人生を恨んだり、呪ったりも、仕方ないかとも思えます。

 多分、ほとんどの人は、何回も生まれ変わっていると私は思いますので、生まれてからの記憶にはない、遠い記憶を思い出して変れるチャンスを持っていたと考えます。

 

 もう一つ、まだ、学生のうちに、カルト的な宗教団体に嵌ってしまうと、人格そのものが、破壊され、意固地に凝り固まった、宗教ロボット、改造人間になるのだと、思い知らされました。

 宗教団体は、献金や人集めの為に、「罪と罰、地獄の恐怖」で人を縛り付けます。

 先の、規則で縛られた家庭を出た後の受け皿として、エスカレーターにそのまま乗り換えたとしたら、違和感もなく、そこで心地よくいられるのかもしれないと思いました。


 幸いにも、宗教団体には、深入りせず、私は、長く社会で働いています。だから、段々その宗教団体と世間が乖離していることが感じられました。

 それに、本来、宗教は、人を幸せにするためのものであると信じてきました。

 それが、献金や人を集めてくる駒やロボットのようになってしまっていることに、ある時、ふっと気が付いて、愕然としました。


 御仏の救いを説かず、ひたすら教祖の恩を教え込み、教団の利益の為に尽くすことは、やめようと決心しました。


 元々、能天気で、反省も適当に済ませ、本当に地獄に行くともそれほど思えなかった私は、大変な思いをしたことはしましたが、30年近くかかって抜けられました。

 最終的な、きっかけは、家族の嘘です。その嘘で死ぬほど苦しんだ私は、こんな人を苦しめる人が信じている教えは、絶対おかしい、こんなところにいては、死ぬまで救われないし、この世も不幸になるばかりと確信しました。


 そして、ひたすら御仏に向かって、救われました。

 そこは、罪も罰も地獄も、辛く苦しいことは全く、無縁の世界でした。

脅しによる恐怖も無縁でした。

 なぜ、人間の罪悪を執拗に教え込むのか分かりません。

すでに、自分の罪がわかって、怖れている人には、慈悲の言葉が必要ではないでしょうか?

 それが対機説法ではないでしょうか?

 きっと、対機説法が出来る人がいないのでしょう。

 それなら、せめて、御仏のお慈悲の面だけを説いたらいいのに。

 お慈悲を聞いて、付け上がる人は、少ないし、思い上がったとしても、恐怖で自分も人も責め続ける危険な人間を大量に再生産しないでしょう。


 罪と罰に恐れをなす人は、安心したり、満足することを知らないので、周りの人を搾取し続け、何も持っていないというと、どこかから持って来いと、更に責め続けます。関わり続けると消耗して、自分が価値のない人間に思えてきます。


 だから、線引きをして、修業はもうお終いにしました。

 人間は自分が変ろうと決心しない限り変りません。

 恐怖で怯えている人は、怖がらせてはいけません。

 しかしながら、慣れ親しんだ、恐怖を与えるところに、ふらふら引き寄せられてしまいうので、始末に悪いです。

 

 何が、自分にとって本当に大切か、全てと関わりを絶って、一人になって頭を冷やして、考えたら何か分かるのかもしれません。