あれ程、今、死んだらどうなるのだろうと、強迫観念に囚われていたのが嘘のようです。

 今は、花降るお浄土でも、また人間に生まれ変わっても、これはないでしょうが、六道のどこかでも全く構わないのです。

 どこでも、Okという感じがピッタリきます。

 来世に対する不安が、全然ないのです。

 次にどこに生まれるかは、お浄土に戻って行って、御仏と相談しながら、ゆっくり考えたらいいかと、いたって呑気です。

 たとえそこが、どこであっても、生まれた所で、そこで、また生きたらいいと思えるのが不思議です。


 救われたのも、全く御仏のお力、他力でしたから。

 自分で、ああして、こうして、何かして、何かが間に合って救われたのではないので、仏様から、すっかりそのまま頂いた幸せなので。

 何がどうして、こうなったかは、全く以って見当がつきません。

 とても不思議です。


 何かコツもなければ、道もない、求めていたものが、何のご縁か、身に付いてしまって離れないのです。

 救われる前は、某宗教団体で、求道者は「~すべき」をいつも、いつも押し付けられました。

 講師と呼ばれる人たちも、自分は救われていないのに、そんなことがなぜ言えるのか、それも、そもそも不思議でしたが。

 事あるごとに「会長先生は、~という御心で」と会長の代弁を聞かされました。

 それなら、会長本人が自分の口で、説法中に言ったらいいのにと、私は、説法の中で言ったことしか信じなくなりました。

 そのうち、説法と、日頃の会の在り方のギャップが感じられて、会長や会から去ったのですが。


 ヒトが何と言っても、今はどうでもいいです。

 現に、未来にも、死後も不安もないのですから。

 だから、「~すべき」ということをヒトに言われる必要もなく、とても自由です。

 それでも、悪い事を、「し放題」というのとは違います。

 どうせなら、もっと、こんな幸せな境地に、たくさんの方々になって欲しいので、その為には、自分が幸せでないといけないから、幸せになれるように生きています。何もしなくても、不安がないだけで幸せですが。


 何が正しいか、間違いかと青筋を立てて、議論するのは性に合わないから、私は何が楽しいかを、極めて生きていきます。

 その方が楽で、自然な気がします。