真宗の信心は、疑いが晴れたか否か、これは皆、ハッキリしますが、あとは人それぞれでしょう。
仏ではないので、煩悩はあります。欲も怒りも愚痴もあります。ただ、不思議なのは、懺悔の気持が出てくることです。
こんな私がなぜ救っていただけたのだろう、こんな煩悩まみれの事では申し訳ない、一人でも多くの方に阿弥陀仏の本願をお伝えしたいと懺悔させられます。苦しくなります。
でも、108の煩悩も法然様や親鸞様のようなお方と私では表面に出てくるものは、違うでしょう。
修養とか、鍛錬とか、忍耐とかお徳がまるで違いますから。
煩悩を起こされても、すぐ懺悔、反省され、そのエネルギーを布教に向けられるのかもしれません。
信前から、人にお伝えしたかった人は、信後も変わらずお伝えすると思います。
でも、信前から、お伝えしたい気持が薄かったのに、信後、人が変わったように、バリバリ話し出すことは、煩悩具足からしても、無理なのかとも、最近思います。
それから、歴代の善知識や有名な妙好人のように大活躍される方もあれば、私のように、とりえも才能もない者は、淡々とブログを更新するくらいで、大した事も出来ません。
でも、阿弥陀仏の本願に傷がつかないように、人に接する時は、笑顔で、優しく、綺麗な言葉を使うように心掛けたり、親切にしたり、「世の生業に」勤しむよう心掛けています。
教えよりも、私の言っている事、やっている事を周りの人は見ていますから、責任重大です。
皆さんの中には、阿弥陀仏の本願を信受させて頂くと、超人のようになるとか、慈悲の固まりになるとか思っている方も、あるかもしれません。
だから、某会の会長に心身ともに依存してしまうのでしょう。
でも、所詮ただの人間です。名利で身を滅ぼし、晩節を汚してしまった、ただの哀れな老人です。
はじめは、どうであったか、途中どう変わったかは、本人でないので、わかりませんが、
今は、皆さんのご覧になっている通りです。感じていらっしゃる通りです。
信人の人に過度の期待を持つと、裏切られた時、仏教すら、誹謗する事になります。
ハッキリ、変わるのは、なくなるのは「本願に対する疑い」であって、
それ以外は判断基準でないし、人それぞれで、仏教を名利の為に利用する事も、あり得るのではないでしょうか?
絶対服従などとMCされて、知識に盲信してしまったことに気がついたら、
某会から意外と簡単に離れられるかもしれません。
大切なのは、阿弥陀仏に向かうことです。
阿弥陀仏相手の生活をする事です。
人相手に生きていると道を踏み外すのかもしれません。
阿弥陀仏の本願に今、救われます。
