疑情がある状態では視野が狭い上に薄ぼんやりしていたので、死後、ちっぽけな私が無限に広く深い暗黒に引き込まれる後生の一大事に、常に戦々恐々としていました。真理と共にあるいまは広くて明るく静かな安堵感がこの先ずっと続く感覚にいます。不思議です。

 

後生の一大事の話を聞きながら、求道を断念した人たちは辛い日々を生きているのではないかととても気の毒に感じます。だから、それを解決できた私は、そのことを博士論文、著書などを残そうと決意しました。

対面で話はしないけれど、いまや未来の有縁な人のために博士論文や著書を完成させるために書くことは毎日続けています。これなら非難攻撃はあまり受けずにいられます。縁の薄い人と直接関わるとろくなことがないと散々知らされてこんなペースで生きています。

 

疑情が晴れたその日から、私の布教生活が始まりました。初めは仏教を聞いていた人たちからの依頼でしたので、聞法時代の布教使の法座の内容、真宗教学等を話していました。そのうち、相手の話を聞いて対機説法の形を取らないと真理との邂逅は難しいことにきづきました。

 

大学の3年次編入で心理学を学び、カウンセラーの資格を取り、話すより聞く大切さを知りました。いまは相手が真理との邂逅、死の解決を痛切に求めているときだけ、一度だけお話しすることにしています。中途半端な人に話すと憎まれ、嫌われるなど嫌な目に遭うからです。

 

有縁の方との縁がないときは、無理矢理誰かに話すより、文章でも書くスタイルが、大学院修士、博士課程に身を置く頃から定着しています。でも、対面で有縁の方が真理との邂逅をされるのを見届けるのは何より嬉しいです。真理のお手伝いの真似事をしているようで有難く嬉しいです。

 

真理に対しての御縁は深めていけばいいけれど、真理や世の中の全てに対して報恩謝徳がない人とは関わっている時間はありません。たとえ縁が深い人でも話をするのをお断わりします。嫌々引き受けると御礼を求める気持が噴き上がり、相手を心で殺したくなるので。

 

 

疑情が晴れたとき私には何も見えませんし、聞こえませんでした。周りが明るくなったり、光ったりもしませんでした。ただ自力を手放したというか、スッとなくなり安堵と開放感と温かさが全身に広がりました。真理との一体化、通過、透過というきづきの瞬間が消えずいまに至ります。

ある大学の先生と話していると次のように言われました。「あなたが真理から何らかの啓示のようなものを受け取ったのなら、この世のことがその範囲の西洋の現代思想とかの枠を超えてるから、そこら辺に固執している人はあなたの話は分らないでょ。」妙に納得しました。

日本語:

「他力」・「手放し」の信心

――浄土真宗における対話・カウンセリングによる現代的救済過程の一考察――

英語:

Belief in "Other Power" and "Surrender": A Study of the Modern Awakening and Liberation Process through Dialogue and Counseling in Jodo Shinshu

Liberation (開放された自由)の前にAwakening(きづき)を入れた方がいいのかとも考えます。救済されている状態は英語で表現するとEmbrace(真理との一体化)ですけれど、長くなるのと煩雑なので省略しました。

死んだらどうなるかをはっきりさせること。これが唯一の人生の目的でした。生死を超える身に救われた報謝の人生をいま、後世の方々に書き残せたらそれだけでいいです。

 

査読採択論文の一つは数年前、共に博士課程修了を目指し、成就の後、他界した友人に勧められたところに投稿したものです。彼女の生前の応援、遺志を必ず実現します。

 

 

博士論文提出予定書を事務局に提出した旨の知らせを担当教員から受取りました。後は編集を急ぎ、全体を完成して、修了生の先輩に書式などを共に確認した後、提出するのみです。いろいろな方々のお力添えでここまで来られて本当に有難いです。

真宗カウンセリングと既存のものとの方向性の違いが私の中で明確になりました。人間の力では解決できないないこと、特に自身の死、親しい人たちの死別という宗教でしか扱えない問題を真宗がどう寄り添えるかを論じます。一部の文章等以外は書き下ろしの構成で完成に向っています。

「後生の一大事」の解決のために私は仏教を求めて、無事目的を果しました。だから、この体験をいま、そして未来の人たちのために残すために8年前、博士論文に着手しました。必ず成就します。なぜなら私はこのために生まれて、生きているのだから。ほかは何もありません。

二元論でしか捉えられない人たちがする政治は両方が得をする政策は無理です。だから、いままでなあなあで通ってきたことをほじくると一気に潰されます。少しよくなることでも、なかなか根気が要り、首長の人格を慕う沢山の信頼できるブレーンが揃わないと無理です。

 

公務員、民間どちらとも人事役は無意識に自分たちと同様な人物を採用します。職場の大半の構成員は過不足ない程度に仕事をこなし、共に過ごす時間を快適なものにしてくれたらいいからです。変革、野心、斬新なアイデアを持つ人材は要りません。それらには外部に大金を払います。

 

官僚の中には法律に基づいた決断が正解と考える人があります。でも、その法律はひとびとの幸福のためにあります。法学部出身でもこのことを間違える人が多くいます。大学で法律を学んでいない他学部出身の役人が現場で法律を隠れ蓑にし、自責を免れる宝刀にするのは悲しいです。