いつも温かい応援をいただき、本当にありがとうございます。

本日は、皆様とのお話会や打ち合わせを、お互いに真摯で実りのある時間にするため、改めて【大切なお願い】をお伝えさせていただきます。

限られた時間の中で、本当にご縁のある方との繋がりを何より大切にしたいと考えております。どうぞご理解とご協力をお願いいたします。

■ 開催場所について(原則として京都)

お話会および打ち合わせは、原則として「京都」にておこないます。 参加をご希望の方は、恐れ入りますが京都までお越しいただけますようお願いいたします。

ただし、以下の場合に限り、こちらからの出張を検討させていただきます。

  • お寺やグループ単位での講義形式など、多人数の移動が困難な場合

  • ご病気や心身のお事情により、京都への移動がどうしても難しい場合

※上記以外の理由による出張のご要望には、原則としてお応えできかねますのでご了承ください。

■ 費用について

私がいただく費用は、実費としての交通費のみです。それ以上の金額は一切受け取りません。 だからこそ、往復の移動時間や身体的負担へのご配慮を欠いたご依頼や、「交通費さえ払えばいつでも来てもらえる」という一方的な形でのご依頼はお控えいただけますようお願い申し上げます。

■ 受付をお断りする場合について

大変恐縮ですが、以下に該当する場合はお話会をお受けすることができません。

  • 事前の条件を満たしていない場合(書籍の事前購入など)

  • 時間やマナーに関するご配慮を欠く場合 (早朝・深夜の呼び出し、事前の約束時間を大きく超える拘束など)

  • お互いのリスペクトが難しい場合 (私の本や発信内容を全く読まれていない、依存的・搾取的な言動が見受けられるなど)

条件に満たない場合のお申し込みにつきましては、個別の交渉や説得、長期間にわたるメッセージのやり取りには応じかねます。

お互いにとって心地よく、真摯な時間を過ごすためのお願いとなります。 一期一会のご縁を最高の形にできるよう、ご理解、ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

化城のことを考えていて、ふと一つの例えが浮かびました。

東京にいる人が、京都の話を聞いているとします。 その話をしている人が、実際に京都へ行ったことがあり、京都の町を歩き、風景を見て、空気を感じた人であれば、その話には実際に触れた人ならではのものがあります。

 

しかし、もしその人が京都へ行ったことがなく、名古屋を京都だと思い込んでいるとしたらどうでしょうか。

その人の話を聞いた人は、大都市で人も多い名古屋を京都だと信じてしまうかもしれません。 話し方が上手であればあるほど、詳しく説明されればされるほど、聞く側は「きっとそうなのだ」と思ってしまうこともあります。

しかし、問題は言葉の巧みさではありません。 その人が本当にそこに立ったことがあるのか、ということです。

 

これは、他力の信心についても同じことが言えます。

テープ、CD、YouTubeなどの音源、また現在ではAIとの対話などを通して、阿弥陀仏の本願を聞くご縁を賜ったと公言する人がいます。それらの資材が大切なご縁になることもあります。しかし、一つ注意しなければならないことがあります。 「分かった」「安心した」「これが信心だ」と自分で決めてしまうことです。

 

なぜなら、信心を賜る前には、いくつもの「化城」があるからです。 化城とは、信心を賜っていないのに賜ったと安心して安楽椅子に座っている状態であり、途中の安らぎを最終目的地だと思い込んでしまうことです。

  • 苦しみが少し軽くなった。

  • 仏法が分かった気がする。

  • 念仏が出るようになった。

  • 阿弥陀さまは救ってくださると思える。

それらは大切なご縁ですが、それをもって「もう到着した」と自分で判断してしまう危うさがあります。それゆえ、昔から真宗では、特に蓮如上人が「信心の沙汰」を大切にされてきました。 自分では気づかない自分の計らい、自分が安心の根拠にしているものを、他の人との語らいの中で明らかにしていくためです。

 

さらに、もう一つ大きな問題があります。 もし自分自身が化城にいる状態であれば、他の人を本当に求めるところまで導く話はできません。なぜなら、自分が京都に行ったことがなく、名古屋を京都と思っているなら、他の人にも「ここが京都ですよ」と案内してしまうからです。本人に悪気はありません。本当にそう思っているのです。 しかし、向かっている場所が違えば、どれだけ親切に案内しても目的地には着きません。

 

信心の問題は、それほど大切なことです。 したがって、自分がどこに立っているのかを、真剣に確かめるご縁が必要です。本当に阿弥陀仏の本願に遇った人は、「自分は分かったから大丈夫」と人を安心させるのではなく、その人が本当に後生の一大事を解決するところまで、ともに向き合おうとします。

京都を知っている人だから、京都までの道のりを語ることができるように。 本願に遇った人だから、迷いの中にいる人の苦しみに寄り添い、本当に求めるところまで語り合うことができます。

最近、お話会へのお問い合わせをいただく中で、あることを感じています。

私がかつて長く関わっていた団体とは別に、もう一つ、小規模な活動を続けてきた団体があります。 長い年月の中で、一方は施設を建設し、活動範囲を広げ、大きな組織へと発展していきました。 もう一方は、一つの拠点を中心に地道な活動を続けてきました。

どちらが良い悪いという話ではありません。 ただ、最近私のもとへ連絡をくださる方々の中には、その小規模な団体にご縁のあった方が少なくありません。

その方々の中には、 「自分は年を取っていて貧しいので」 というようなお話をされる方もおられます。

 

私には「そうですか」とお聞きすることしかできません

もちろん、それぞれにさまざまなご事情がおありなのでしょう。 しかし正直に申し上げると、そのようなお話を伺っても、私には 「そうですか」 とお聞きすることしかできません。

なぜなら、私はその方の置かれた環境や年齢、経済状況といった「条件」で、その人自身を値踏みしたり、判断したりすることは一切しないからです。

人生にはさまざまな事情があります。 若い人にも、高齢の人にも悩みや苦しみはあります。 余裕のある人にも、そうでない人にもそれぞれの苦悩があります。

ですから私は、そのような外側の条件によって人を見ることはありません。 私にとって大切なのは、環境そのものではなく、その中にある「求める心」だからです。

 

私が見ているのは一つだけ

私が見ているのは、 「その人が本当に求めているかどうか」 その一点だけです。

今まで、本当にお話が聞きたいと真摯に連絡をくださった方々は、みな「いま聞きたい」という強い覚悟を持ってメッセージを送ってこられました。そこには、環境を言い訳にするような言葉はありませんでした。お互いの限られた大切な時間を無駄にしたくないという、真剣な思いが行動に表れていたのです。

もし、そうした甘えや引け目を理由にする姿勢をそのまま受け入れてほしい、慰めてほしいと思われるのであれば、それを受け入れてくれる他の団体や個人のところでお聞きになればよいと思います。何も、私である必要はありません。

 

なぜ本を通読していただくのか

今回、 「本を購入し、通読された方を対象にお話しする」 という形にしたのも、そのためです。

これは本を売るためではありません。 5,000円以上する、決して安くはない本をご自身のお金で購入し、一冊最後まで読み通す。 そのために時間とエネルギーを使い、そこに向き合う。 その行動にこそ、その人の「真剣な姿勢」が表れるからです。

何も読まずにただ「話を聞きたい」と連絡をしてこられるのと、高価な本をご自身の意志で購入し、通読した上で来られるのとでは、そこにかける覚悟も、お話の深さも、理解の深さも全く違ってきます。

 

お互いに真剣な時間にするために

私は誰かを選別したいのではありません。 また、条件をつけて人を遠ざけたいわけでもありません。

ただ、本当に大切な話なので、お互いに真剣に向き合える場にしたいのです。

だから、 本を読み、 考え、 その上で、 「それでも直接話を聞きたい」 と思われる方と向き合いたいのです。

私が見ているのは、その人の年齢でもなければ、経済状況でもありません。 本当に求めているかどうか。

ただ、その一点だけです。

読者サービスのためのお話会のご案内に対して、多くのお問い合わせをいただいております。有難うございます。嬉しく存じます。 その一方で、この企画を立てた初心に戻って考えさせられることがありました。

 

ある方から、 「病気なので京都には行けません。交通費は出しますので、こちらへ来て話してください」 というご連絡をいただいたのです。 病気や怪我によって移動が困難になることはあります。 そのこと自体を問題にしているのではありません。 しかし、やり取りを続ける中で分かったのは、その方がまだ自著を購入されていなかったということでした。

そもそも、本を読んで(自分なりに向き合って)もいない段階で、著者に直接連絡をし、あれこれと要求してくるということ自体が、本来であれば順序としておかしなことです。

 

さらに、 「交通費だけで、あとは無料なんですね」 という確認もありました。 私は最初から、 「自著をご購入くださった方には無料でお話しします」 とお伝えしています。 ですから、私が考えさせられたのは金額の問題ではありません。 読者サービスとして行っている企画であるにもかかわらず、本を読まないまま話だけを求められたり、事前にお伝えしている前提条件さえ確認しないまま安易に連絡をしてこられたりした、その姿勢そのものに大きな違和感を覚えたのです。

 

私は以前から、人は自ら時間や労力、あるいは対価を払って得たものほど大切にすると感じています。 世の中でも、無料で配られるものは簡単に扱われます。 しかし、たとえ100円でも自分でお金を払ったものは大切にされます。 金額の問題ではありません。 自ら求めて手に入れたという事実が大切なのです。

 

だから私は、お話会を読者限定にしています。 本を購入し、読み、自分なりに向き合った上で参加していただく。 その過程そのものに意味があると思うからです。

私の本は、決してお手軽に読める性質のものではありません。五千円以上という決して安くはない対価を払い、それでも真理を求めて真剣に読み込んでくださった読者の方々です。私が「読者限定」と限っている意味、あるいはその読者の方々に対する私の敬意の重さを、よく考えていただきたいのです。

 

振り返ってみますと、これまで私にご連絡くださり、実際に信心を賜るご縁まで至られた方々の中で、今回のような理不尽なことを言ってきた人は一人もいませんでした。 皆さん事情はさまざまでした。

 

それでも、「いま、どうしても聞きたい」という真剣な覚悟を持ってメッセージを送ってこられ、心の向きが「どうしたらこのご縁を逃さずに済むだろうか」という方向へ向いておられました。お互いの貴重な時間を無駄にしたくないという思いが、その姿勢からも伝わってきたものです。

 

少なくとも、本当に心の底から話を聞きたいとは思っていない段階なのに、「こちらへ来てください」とか、「本当に無料なのですか」という確認から入られることはありませんでした。 もちろん、病気や怪我によって移動が著しく困難な場合は別です。 しかし今回の件については、私には何か根本的に筋が違うように感じられました。

 

その違和感は、やり取りを続けるほど大きくなっていきました。 そこで改めて考えました。 私は何のために、誰のためにお話会をしているのだろうか、と。 お話会は、自著を読んでくださった方への読者サービスです。 本を通してご縁をいただいた方々への報謝の気持ちでもあります。

 

ですから今後は、この趣旨をご理解いただけない方や、前提条件を満たしておられない方との個別のやり取りについては、一定の距離を置かせていただきます。 もし、こうした礼節や前提を抜きにしたやり取りを受け入れてくれる団体や個人がいるのであれば、そちらで話を聞かれればよいかと思います。何も私である必要はありません。

 

誰かを排除したいからではありません。 限られた時間とエネルギーを、本当に本を必要とし、真剣に読んでくださる方々とのご縁のために使いたいからです。 私の願いは、自著が必要な方のもとへ届き、その方の真理との邂逅、後生の一大事を解決する縁となることです。 これからも、その原点を大切にしていく所存です。

日頃から考えさせられている「聴聞」のあり方と、このたび上梓した自著に込めた願いについて、有縁の皆様にお伝えしたく存じます。

 

聴聞は、本来、如来の智慧の光に照らされて、我が身の愚かさや迷いに気づかされ、死の恐怖を解決し、生死を超える道に出遇うためのものです。 「一息切れたらまた迷いを続ける」という、後生の一大事を抜けるための緊迫したプロセスであるはずです。

 

ところが、ときどき残念に感じることがあります。 それは、さまざまな先生や法座を渡り歩きながら、肝心の「自分自身」が置き去りになっているように見える方がおられることです。

「あの人の信心は本物なのか」 「この人の話は正しいのか」 「こちらの先生のほうが優れているのではないか」

そんなことばかりに心を向けているうちに、自分自身の後生の問題から目が離れてしまうのです。本来なら、「私はどうしたら真実信心を賜ることができるのか」という一点が最も大切なはずではないでしょうか。

 

しかし、人間は知らず知らずのうちに、自分が「聞く立場」から、他人を「評価する立場」へと移ってしまうことがあります。すると、教えは我が身を照らす鏡ではなく、他人を測る物差しになってしまいます。

相手の話を聞きながらも、 「どこか間違っていないか」 「理想の信心の人に当てはまるか」 「この人は本物か、それとも違うのか」

そんな視点で聞いているうちに、教えは自分を照らすものではなく、他人を裁く材料になってしまいます。そして、自分は未信だと言いながら、いつの間にか、自分は全く傷つかない安全な「審査員の席」に座り、あの人は正しい、この人は化城だと評価するようになります。

 

私はその姿を見るたびに、 「そんなことをしている間にも、命は確実に終わりへ向かっているのに」 と思わずにはいられません。

人生は有限です。誰かを論評している間にも、一日は過ぎ、一年は過ぎ、やがて死は必ずやってきます。後生の一大事を横に置き、知識や人物評価だけが積み重なっていく姿を見ると、残念で、悲しくてなりません。

「言い訳」の裏にあるもの

そのことは、自著に対する反応を見ていても感じることがあります。 私の本について、「博士論文だから難しそうですね」と言われることがあります。しかし、実際に本を手に取ってもいないのに、最初からそう決めつけてしまうのは不思議なことです。

また、 「年金暮らしだから買えません」 「文字が小さそうで読めません」 と言われることもあります。

 

もちろん、それぞれに事情はあるのでしょう。ですから私は、「そうなんですね」としか申し上げません。

しかし、人は本当に必要だと思うものには、お金も時間も使います。 一万円を超える本でも必要なら購入します。老眼であれば拡大鏡や拡大フィルムを使ってでも、大事だと思われるものは読まれます。そういうものです。

反対に、必要性を感じていなければ、どれだけ条件が整っていても手に取りません。問題はお金でも文字の大きさでもありません。「本当に求めているかどうか」です。

この本に込めた「至誠」

私の自著は、一般にイメージされるような学者同士の難解な議論を書いたものではありません。

この論文は、傍流の『歎異抄』解釈や、根拠のない主観的な体験談をただ並べたものではありません。釈尊から七高僧、法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人へとまっすぐに続く教えを軸に据えています。

 

その揺るぎないお裏付けをベースにした上で、広島、大阪にある自身が学んできた二つの僧侶養成学校の創立理念から現代まで歩み、近現代に他力手放しの信心を多くの方々に伝えられた先達の実例、終末期医療、真宗カウンセリングなどの実践を通して、現代人がどのように死の恐怖を超え、真理と出遇うのかを考察しました。

 

ここには、私自身が信心を賜ってからの十八年間、絶えず続けてきた「信心の沙汰」や、ワークショップ、学会発表資料なども盛り込んでいます。完成までには九年の歳月がかかりました。その中にはコロナ禍の四年間、そして僧侶養成学校で学んだ一年間の、合わせて五年の休学期間も含まれています。細い糸を紡ぐように、一字一字丁寧に書き上げたものです。

私は難しい本を書こうとしたのではありません。むしろ逆です。難解な仏語を徹底して排し、現代の人々に真実信心がどのように伝わるのか、そのご縁となることを願ってまとめたものです。

 

有難いことに、「信心を賜った人ならスラスラ読める文章ですね」という感想もいただきました。私はこの言葉を大変有難く受け止めています。

お金の問題ではなく、信頼の問題

ところが、お話会について、非常に考えさせられる出来事がありました。 ある方から、「病気なので京都には行けません。交通費は出しますから、こちらへ来て話してください」とメールで問い合わせが来たことがあります。病気で外出が難しいこと自体は理解できます。しかし、その方は私の本を購入されていませんでした。

 

そして、その同じ方から、「交通費だけで、あとは無料なんですね」と言われたのです。 私は最初から、「本を購入してくださった方には無料でお話をします」とはっきりお伝えしています。でも、私が悲しかったのは、お金の話をされたことではありません。 本も読まず、まず自分のところへ来ることを求め、そのうえで、あらかじめ明言している内容まで疑われたように感じたことです。もちろん、ご本人は確認のつもりだったのでしょう。

しかし私には、 「本当に無料なのですか」 「あとから別のお礼や費用が必要になるのではないですか」 と言われているように聞こえました。私が感じたのは、お金の問題ではありません。信頼の問題です。

本当に求める人は、何を見ているのか

この出来事を通して改めて考えさせられました。 本当に求める人は何を見ているのだろうか、と。本の値段でしょうか。 文字の大きさでしょうか。 交通費でしょうか。 追加費用がないかどうかでしょうか。 誰の話が正しいかという品評でしょうか。無料でやり取りをしてくれる都合のいい人でしょうか。

それとも、自身のいまここでの真理との邂逅、後生の一大事の解決でしょうか。

 

私は長年、信心の沙汰を重ねる中で強く感じてきたことがあります。 人は知識によって救われるのではありません。真理との邂逅によって救われるのです。

どれほど多くの話を聞いても、どれほど多くの本を読んでも、死の恐怖が解決されなければ根本問題は残ります。反対に、真理に出遇えば、生死を超える道が開かれます。

だから私は、聴聞ホッピングや人物評価に時間を費やすよりも、自らの後生の一大事に目を向けてほしいと願っています。

 

「難しそうだから」「高いから」「文字が小さいから」「遠いから」という理由を並べる前に、

「自分は本当に真理を求めているのだろうか」 「本当に死の問題を解決したいと思っているのだろうか」と、一度我が身に問いかけていただきたいのです。

 

この一冊は、知識を競うための本ではありません。真理との邂逅のご縁になればという願いのもとに生まれたものです。必要な方のところへ、必要な時に、最も相応しい形で、愛しのゾロメカ本たちが届き、信心の沙汰の資助になってくれることを心より念じております。

私たちが生きるこの世界には、単なる科学的・論理的な事実だけでは、どうしても人間の心の奥底まで届かない現実があります。

例えば、かけがえのない大切な人を亡くしたときのことです。

頭では「亡くなった」「心臓が止まった」「火葬されて骨になった」という事実を理解しています。

しかし、それだけで本当に納得できるでしょうか。

「またひょっこり姿を見せてくれるのではないか」

「どこかで生きていてくれるのではないか」

そんな思いが湧いてくるのは、ごく自然なことではないでしょうか。

生前のあの温かい言葉や眼差し、優しさやぬくもりが、死によって完全に消滅してしまったなどとは、到底認めたくありません。

これは理屈の問題ではなく、人間の切実な実存の問題です。

 

このような悲しみや苦しみの中で、

「本当の真理に生きたい」

「死とは何なのか知りたい」

「大切な人はどこへ行ったのか知りたい」

と願う人も少なくありません。

 

私は、その問いに対して、一つの揺るぎない真理があると信知しました。

しかし、その真理へ至る入り口は、人によって異なります。

宗教の言葉が響く人もいれば、哲学の言葉が響く人もいます。人間の苦悩や実存という視点からでなければ入れない人もいるでしょう。

そこで、以下、同じ真理を異なる三つの表現で眺めていきます。

まずは、ご自身の心に最も切実に響くものがどれかを感じながらお読みください。

【1】宗教的表現(浄土真宗の眼差し)

阿弥陀さまの頭の上に乗り、ああだこうだと文句を言い、疑い、本願に底を敷いていることで、阿弥陀さまは大悲の涙を流していらっしゃいます。

疑情はかくも恐ろしいものだと、信前には気づかないのです。

自分で蓋をし、信心を賜ることを拒否しています。

腐った脳みそをいくらかき回して考えても、出てくるのは疑いばかりです。

自分の力では何もできません。

自力で疑情を晴らすことは金輪際できません。

【2】哲学的表現(理性の限界論)

人間は真理を求めているつもりでいても、実際には自分の既成概念や先入観、思い込みの枠組みの中でしか物事を見ていないことがあります。

そして、その枠組みを絶対視したまま、

「本当にそうなのか」

「そんなことがあるはずがない」

「自分には理解できない」

と考え続けることで、自ら真理との出合いを遠ざけてしまうことがあります。

真理を求める上で最も大きな障害は、知識の不足ではなく、自分自身の思考への執着です。

人は自分の頭で考えることを重んじます。

しかし、いくら同じ前提の上で思考を繰り返しても、その前提自体が誤っていれば、出てくる結論もまた同じ迷路の中を巡るだけです。

腐った土壌から健全な果実が実らないように、誤った前提や固定観念の上でいくら思索を重ねても、疑いや混乱が増えるばかりです。

真理を妨げているのは外部の障害ではなく、自らが握りしめている「自分の理解の枠」です。

 

ところが、そのことは当人にはなかなか見えません。

自分では真理を求めているつもりでありながら、実際には自分の理解を超えた可能性を受け入れることを拒み、自ら蓋をしている場合があります。

真理との邂逅とは、単に知識を増やすことではありません。

むしろ、自分の思考や判断の限界を深く知らされ、「自分の力では真理に到達できない」という事実に直面することから始まります。

 

その意味で、真理を求める者にとって最も恐ろしいのは無知そのものではなく、

「自分は分かっている」

「自分の考えで何とかなる」

という思い込みです。

 

真理は、思考によって作り出されるものではなく、思考の限界が明らかになったところで初めて、その姿を現してくるのです。哲学の言葉に置き換えるなら、これは「認識論的な自己閉鎖性」や「自己の理性への過信」の先に現れるものとも言えるでしょう。

【3】実存的・人間主義的表現(大悲の涙の言語化)

人間は、自らが作り出した論理の檻に閉じこもり、出口のない問いに苦しみながら、

「自分は孤独だ」

「誰も自分を理解してくれない」

と絶望しています。

しかし、真理の側から見るならば、その姿はあまりにも痛ましく、同時に愛おしいものです。

私たちが自分の理性を絶対視し、真理を拒絶して自ら蓋をしているその瞬間も、真理は私たちを見捨てることはありません。

それどころか、自らの狭い殻の中で傷つき、もがいている私たちの頑なさを、言葉にならない深い悲しみと、限りない慈しみをもって見つめ続けています。

私たちが、

「自分の力で真理に到達してみせる」

と傲慢になっている時も、

「どうせ届かない」

と絶望している時も、そのすべてを見抜きながら働きかけ続けています。

自分の思考の限界に突き当たり、自己の無力さに本当に涙するとき、人は初めて知るのです。

自分が孤独に真理を探し求めていたのではなく、実は最初から、その真理の側から呼びかけられていたのだということを。


ここまでは、宗教・哲学・実存という異なる言葉で、同じ真理を見つめてきました。

どの言葉から入るかは人それぞれです。

しかし、人間が本当に求めているものは、知識でも理屈でもなく、

「死の恐怖が解決され、生死を超えること」

です。

ここから先は、浄土真宗が明らかにしている教えに沿って、その道筋をわかりやすくたどってみたいと思います。

3つの表現の根底を貫く「往還回向」の道

① 信前――自力の蓋と、届かない大悲

私たちは自分の歪んだ認識の枠組みを握りしめ、自分の考えを絶対視しています。

そのため、真理を拒み、自ら蓋をしています。

背後では大悲の働きが絶え間なく注がれていても、そのことに気づくことができません。

自分がどれほど深く迷っているかさえ分からない状態です。

② 信心の獲得――真理の通過透過

やがて、

「自分の力ではどうにもならない」

という事実が徹底的に知らされます。

自分の理性の限界、自力の無力さが明らかになり、自ら作っていた蓋が外れます。

そこに阿弥陀仏の本願という真理が、この身を一点の疑いもなく通過透過していきます。

ここで疑情は完全に晴れます。

③ 臨終まで――往相の人生

信心を賜ったその瞬間から、臨終までの人生が始まります。

これが往相です。

その人は、すでに必ず仏になる身と定まり、人生の浮き沈みを超えて、真理そのものに支えられた別の地平、領域で生きるようになります。

自分の計らいではなく、本願の働きによって生かされる人生です。

④ 死後――還相のはたらき

臨終を迎えた後、信心の人は直ちに浄土へ往生し、仏と成らせていただきます。

ここで大切なのは、仏になることが終着点ではないということです。

仏となった人は、今度は迷いの世界にいる人々のもとへ還り、その人々を真理へ導くはたらきを始めます。

親しかった人。

愛する家族。

縁のあった人々。

その人たちに向かって、

「私もあなたも同じ浄土に生まれるのだよ」

と、いまもはたらき続けているのです。

これが還相回向です。

結びに

人間は、自らの認識の枠に閉じこもり、疑いと迷いの中を生きています。

しかし、その枠が破られ、真理に出遇ったとき、生死を超える道が開かれます。

そして、その人は臨終まで真理と共に歩み、死後は仏となって再び迷いの世界へ還り、人々を導いていくのです。

この往還回向の円環は、単なる慰めではありません。

大切な人を亡くした悲しみ、死への恐怖、生きる意味への問いに対して、浄土真宗が示す一つの徹底した答えです。

 

私は、この真理が宗教の壁を超え、哲学の壁を超え、国や文化の違いを超えて、多くの人に届いてほしいと願っています。

なぜなら、人間が本当に求めているものは、知識の増加ではなく、

「死の恐怖が解決され、生死を超えること」

だからです。

その道が、今ここに開かれているのです。

 

お話会についての記事に、

「趣旨を良く理解しました。本を読んだ後、あらためて連絡させていただきます」

というコメントをいただきました。

とても嬉しく思いました。

なぜなら、お話会は単に私に会うための場でもなければ、他の先生方のお話を比較検討する場でもないからです。まず本を読んでいただき、その上で感じたことや疑問に思ったことについて、一緒にお話しする場です。

 

今回、このようなコメントをいただいて、趣旨が伝わったことを有難く感じました。

一方で、ここまで詳しく説明しなければ伝わらないものなのだな、と改めて感じたことも事実です。

 

私は長く研究の世界に身を置いてきました。

研究の世界では、

「〇〇という考えがあります」

と紹介するだけでは終わりません。

「それに対して自分はどう考えるのか」

という指導が必ず入ります。

論文ならば、

「A氏はこう言っています」

「B氏はこう述べています」

だけでは通りません。

指導を受ける際にも、

「だからどうなのですか」

「あなたはどう考えるのですか」

と問われます。

引用は材料であって、それ自体が結論ではないからです。資料を読者に丸投げするような文章を書いてはいけないと博士課程では特に厳しく指導されました。

 

ですから私にとっては、

「〇〇先生はこう言っていました」

「どこかでこんな話を聞きました」

というだけでは、正直なところ、何をお尋ねになりたいのか分からないことがあります。

それに対して、

「私はこう受け取りました」

「私はここが分かりません」

「以前聞いた話と、本に書かれている内容の違いが気になります」

という形でお話しいただけると、何について考えておられるのかがよく分かります。

 

お話会でも同じです。

私は宗派の違いを論じたり、誰かの説を批評したりするためにお話をするのではありません。お名前や著書をお聞きしても、おそらく自身の研究以外は、わからないことがほとんどで、「そうなんですね」としか返しようがありません

 

お話会ではむしろ、その方ご自身が、

自著のどこに心が動いたのか。

どこで立ち止まったのか。

どこに疑問を感じたのか。

そこを大切にしたいのです。

 

なぜなら、他人の問いではなく、自分自身の問いになったときに、初めて本当の対話が始まるからです。

「〇〇先生はこう言っていました」

ではなく、

「私はこう感じました」

「私はここが分かりません」

「私はここで引っかかっています」

という言葉には、その方自身の人生が表れます。

私はその声を聞きたいのです。

本を読んでくださった方と、そのようなお話ができることを楽しみにしています。

 

ただし、私はアイドルではありませんので、もちろんサイン会(本にお名前や自身の落款や日付はお書きしますけど)でも握手会でもありません(笑)。

 

お話会は、信心の沙汰をさせていただく場です。

この本を通して何を感じたのか。

どこで立ち止まっているのか。

何が分からないのか。

どこに疑いがあるのか。

そうしたことを率直にお聞かせください。

そして願わくは、この一回が、他力真実信心を賜るご縁となるような場になればと念じております。一時間、一度限りという、限定的なご縁ではありますが、そのような思いで私は臨ませていただきます。

 

【お問い合わせ・お話会のご案内(再送)】 心底、他力手放しの信心を体験し、死の恐怖をなくしたい人のためのアドレスです。 感想やご質問がある方は、以下までお気軽にお尋ねください。 本のご購入者さまには以前お知らせしたように、本をご持参いただけましたら、1時間程度、対面でお話をさせていただきます。 📬 メールアドレス hereandnow.taiwa@gmail.com ※コメントあるいはメッセージにでも「メールを送りました」とお知らせいただければ、お返事します。 みなさまとお話しできる機会を心より楽しみにしております。 どうぞよろしくお願いいたします。

※複数人でのご参加を希望される場合は、同席される人数分の時間での対応や、お寺・団体単位での講義形式など、柔軟にご相談に応じます。 ※講義形式の場合も、終了時や別の日にお一人ずつお話しさせていただく時間を設けるなど、ご相談のうえで対応させていただきます。

 

お話会のお知らせをしてから、多くのお問い合わせをいただいています。 関心を持ってくださる方がおられることは大変有難く、とても嬉しく思っています。

その一方で、お話会の趣旨について少し誤解が生じている部分もあるようですので、安心して皆さまとお会いできるよう、改めて趣旨と大切なお願いをお伝えしたいと思います。

📖 本を読んでくださった方への「読者サービス」です

まず、「まだ本を購入していませんが参加できますか」というお問い合わせをいただきました。 今回のお話会は、私の本を読んでくださった方への感謝を込めた「読者サービス」として企画したものです。

 

本を読んで感じたこと、分からなかったこと、共感したことや本に掲載しているワークショップを実際に体験していただくことを目的としています。 そのため、事前に本を購入し、お読みいただいていることが参加の前提となります。

 

また、「無料の相談会」や「何でも相談窓口」ではございません。 「無料だから申し込む」というものではなく、「本を読んだので、その内容について直接話をしてみたい、深めたい」という方を対象としております。

📢 ご紹介・口コミをしてくださる皆さまへのお願い

ブログやnoteを直接ご覧になったのではなく、人づてに聞いてお問い合わせくださる方もいらっしゃいました。ご紹介いただけるのは有難いことですが、どうか、 「無料で何でも話を聞いてくれる人がいる」 「無料相談に乗ってくれる」 というような形でのご紹介はご遠慮ください。それは私の意図とはまったく異なります。

 

お話会は、当日、本をご持参いただくことから始まります。 まず本に、ご本人のお名前、日付、そして私の落款を記させていただきます。さらに透明カバーもおかけします。

そのうえで、お互いに本を開きながら、 「この部分について詳しく聞きたい」 「ここがよく分からなかった」 「ここに共感した」 と、本を突き合わせながらお話を進めていく時間です。 ワークショップも、本の内容に沿って実際に進めます。 つまり、お話会は本と切り離されたものではなく、あくまで「本を中心に行うもの」です。

⚠️ 安心・安全な運営のためのお願い

【訪問先について】 大変恐縮ですが、男性の一人暮らしのお宅への訪問依頼はお受けしておりません。お伺いする場合は、女性のご家族等が同席されるご家庭に限らせていただいております。安心・安全な運営のため、ご理解いただけますと幸いです。

【お話しする内容について】 お問い合わせの際、他の団体や特定の先生方、布教使の方々について詳しく書き添えてくださる方があります。

お話を進めるうえでの背景(どのような立場・状況の方か)を確認するため、「普段どのようなところに所属しているか」「どなたのご紹介か」「どなたのお話を聞いて関心を持たれたか」といった経歴・きっかけにつきましては、必要最小限にとどめて簡潔にお書き添えください。

情報が全くないとお話が進まないこともございますが、長文での言及やご説明はご遠慮いただけますようお願いいたします。

また、このお話会自体は、他の先生方や団体について語り合ったり、議論したりする場ではございません。メール等でのお問い合わせも含め、主旨から外れた内容への必要以上の言及はご遠慮ください。

【皆さまの個人情報と、私のスタンスについて】 中には「参加することで、自分の情報がどこかに伝わってしまうのではないか」「勧誘されるのではないか」とご心配な方もおられるかもしれません。

どうぞご安心ください。皆さまが普段所属されている団体や、お付き合いのある布教使の方々などに対して、皆さまがお話会に参加されたこと等の個人情報を私からお話しすることは一切ございません。

また、皆さまを特定の所属寺や、私の団体に無理やり引き入れるようなことも絶対にありません(そもそも、私は生涯、自身の団体を作るつもりは全くございません)。

何しろ、このお話会は「一度限りのご縁」です。後腐れのない、その場限りの純粋な学びと対話の時間ですので、どうぞ安心して、本の内容とご自身の心にだけ向き合う時間にしていただきたいと願っております。

 

今回のお話会は、あくまでも本を大切に読んでくださった方のための時間です。 その趣旨をご理解いただいたうえで、温かい時間を共に過ごせる方からのお問い合わせを心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ・お話会のご案内(再送)】 心底、他力手放しの信心を体験し、死の恐怖をなくしたい人のためのアドレスです。 感想やご質問がある方は、以下までお気軽にお尋ねください。 本のご購入者さまには以前お知らせしたように、本をご持参いただけましたら、1時間程度、対面でお話をさせていただきます。 📬 メールアドレス hereandnow.taiwa@gmail.com ※コメントあるいはメッセージにでも「メールを送りました」とお知らせいただければ、お返事します。 みなさまとお話しできる機会を心より楽しみにしております。 どうぞよろしくお願いいたします。

※複数人でのご参加を希望される場合は、同席される人数分の時間での対応や、お寺・団体単位での講義形式など、柔軟にご相談に応じます。 ※講義形式の場合も、終了時や別の日にお一人ずつお話しさせていただく時間を設けるなど、ご相談のうえで対応させていただきます。

お話会のお知らせをしてから、有難いことに多くのお問い合わせを寄せられています。

このブログやnoteでのアナウンスだけでなく、それをご覧になった方からのご紹介でメールをくださった方もいらっしゃり、嬉しい繋がりを感じております。

現在、第二弾の執筆(解説書の準備)も並行して進めておりますが、本を手に取ってくださった方々とお話しする時間も、同じように大切にする所存です。

 

すでに本をすべて読まれた方、いま読み進めている途中の方、これから読まれる方など、状況はさまざまかと思いますが、どなたでも大歓迎です。

貴重な一期一会のご縁ですので、ご都合の良いタイミングやご希望の日時をぜひお知らせください。

お話しする場所は、アクセスの良い待ち合わせ場所や、最寄り駅の近くのカフェなどを予定しています。 どうぞよろしくお願いいたします。

【大切なお知らせ】 お話会の受付期間は、本の完売が予定される今年の秋から冬頃までとさせていただきます。

 

【お問い合わせ・お話会のご案内(再送)】 心底、他力手放しの信心を体験し、死の恐怖をなくしたい人のためのアドレスです。 感想やご質問がある方は、以下までお気軽にお尋ねください。 本のご購入者さまには以前お知らせしたように、本をご持参いただけましたら、1時間程度、対面でお話をさせていただきます。 📬 メールアドレス hereandnow.taiwa@gmail.com ※コメントあるいはメッセージにでも「メールを送りました」とお知らせいただければ、お返事します。 みなさまとお話しできる機会を心より楽しみにしております。 どうぞよろしくお願いいたします。

※複数人でのご参加を希望される場合は、同席される人数分の時間での対応や、お寺・団体単位での講義形式など、柔軟にご相談に応じます。 ※講義形式の場合も、終了時や別の日にお一人ずつお話しさせていただく時間を設けるなど、ご相談のうえで対応させていただきます。

 

「自分も信じられない、人も信じられない」

という苦悩の中にいる人がいます。

能力がないからではありません。

努力が足りないからでもありません。

 

しかし、心の奥底で、

「このままの自分では駄目だ」

「もっと何かをしなければ認められない」

「何かを成し遂げなければ価値がない」

と思い続けています。

 

その背景には、いわゆる毒親と呼ばれるような親子関係や周りの人たちとの関わりに原因があることも少なくありません。

親から十分に認めてもらえなかった。

ありのままでは受け入れてもらえなかった。

頑張ったときだけ褒められた。

失敗すると否定された。

親の期待に応えることばかり求められた。

感情的に支配された。

傷つく言葉を繰り返し浴びせられた。

もちろん、親自身もまた苦しみを抱え、その苦しみを子どもに手渡してしまったのでしょう。

しかし、子どもの心には、

「私はこのままでは愛されない」

「私はこのままでは価値がない」

という思いが残ります。

 

そして、自分を信じられなくなります。

自分を信じられない人は、同様に他人を信じることもできません。

なぜなら、

「こんな自分を本当に受け入れてくれる人などいるはずがない」

と思っているからです。

人から親切にされても、

「社交辞令だろう」

と思います。

優しい言葉をかけられても、

「本心ではないだろう」

と思います。

大切にされても、

「いつか見捨てられるに違いない」

と思います。

自分への不信と他人への不信は別々のものではありません。

根は一つです。

 

ところが、そのような人ほど不思議なことに、人を助ける側に回ることがあります。

医師。

看護師。

弁護士。

心理士。

カウンセラー。

保育士。

介護職。

教師。

宗教者。

整体師。

治療家。

占い師。

その他、人の悩みや苦しみに寄り添うさまざまな援助職です。

もちろん、そうした職業の人すべてがそうだという意味ではありません。

純粋な使命感からその道を選ぶ人もあります。

 

しかし、

「自分が苦しかったからこそ、人の苦しみが分かる」

という人も少なくありません。

幼いころに傷ついた。

孤独だった。

理解されなかった。

苦しかった。

だからこそ、苦しんでいる人を見ると放っておけないのです。

これはとても尊いことです。

実際、そのような人だからこそ、人の痛みに深く共感できることがあります。

 

しかし、そこには一つの落とし穴があります。

それは、

人の役に立っているときだけ自分に価値がある

という思いです。

人から感謝されることで安心する。

必要とされることで存在価値を感じる。

頼られることで自分を支える。

すると、人を助けているようでいて、実は自分自身もまた救われようとしているのです。

だから、人を助けても助けても安心できません。

感謝されても満たされません。

評価されても落ち着きません。

 

なぜなら、本当に求めているものは評価や感謝ではないからです。

自分の存在そのものへの安心だからです。

援助職の大きな矛盾はここにあります。

人を助けることには熱心なのに、自分を助けることは後回しにしてしまうのです。

医師は患者を診ます。

しかし、自分の心の疲労には気づかないことがあります。

看護師は患者の苦痛に寄り添います。

しかし、自分の苦痛は我慢します。

心理士は相談者の話を丁寧に聴きます。

しかし、自分の心の叫びには耳を傾けません。

保育士は子どもの心を大切にします。

しかし、自分自身の心の傷は置き去りにします。

整体師や治療家は、人の身体を楽にしようと日々努力します。

しかし、自分の身体を酷使し続けます。

肩や腰を痛めても無理をする。

疲れ果てても休まない。

限界を超えて働く。

占い師も同じです。

来る日も来る日も他人の人生相談に応じます。

人の不安や苦しみに寄り添います。

人生の方向性を一緒に考えます。

しかし、自分自身の不安や苦しみは誰にも語れないことがあります。

人の人生を見つめながら、自分自身の人生を見失ってしまうことさえあります。

宗教者も同じでしょう。

人に教えを説きます。

人を励まします。

人に安心を与えようとします。

しかし、自分自身の根本的な不安や迷いには向き合えていない場合があります。

人を支えているようでいて、自分自身は支えを失っている。

人を助けているようでいて、自分自身は疲れ果てている。

そこに援助職特有の苦しみがあります。

そして、その根底には、

「このままの私では価値がない」

という思いが潜んでいることがあります。

だから、

もっと頑張らなければ。

もっと役に立たなければ。

もっと認められなければ。

もっと必要とされなければ。

という終わりのない努力を続けることになります。

しかし、本当にそれで安心できるのでしょうか。

どれだけ感謝されても。

どれだけ評価されても。

どれだけ多くの人を助けても。

心の奥底にある

「私はこのままでよいのだろうか」

という問いは消えません。

だから、心無い言葉や批判を浴びると、途端に落ち込み、すぐには立ち直れないほど気持ちが崩れ落ちます

 

私は、この問題は能力の問題ではないと思います。

性格の問題でもありません。

もっと根深い問題です。

それは、

常に価値がある自分でいなければならない

という思いそのものです。

価値があるか。

価値がないか。

立派か。

立派でないか。

役に立っているか。

役に立っていないか。

絶えずその物差しで自分を測っています

しかし、その物差しは決して私たちを安心させてくれません。

 

なぜなら、どれだけ努力しても、

「まだ足りない」

という声が出てくるからです。

そして、その苦しみは臨終まで続いていきます限も際もありません

仏教が見つめてきたのは、この人間の根深い迷いです。

自分で自分を認めようとする。

自分で自分を救おうとする。

自分で自分の価値を証明しようとする。

しかし、その努力の延長線上に本当の安心はありません。

 

価値のない自分を信じられず、

人も信じられず、

それでも人を助け続け、

疲れ果てている人へ。

あなたに必要なのは、さらに頑張ることではないのかもしれません。

もっと役に立つことでもないのかもしれません。

もっと評価されることでもないのかもしれません。

 

本当に大切なのは、

頑張らなければ価値がない

と思い込んでいる、その心のあり方そのものを見つめることではないでしょうか。

 

今生、いまここで、生死を超える真理との邂逅を果たせば、

価値があるかないかという終わりのない自己評価の苦しみからも、

人に尽くし続けなければならないという強迫的な生き方からも、

抜け出す道が開かれます。

 

苦しみの根は、自分に価値がないことではありません。

価値を証明し続けなければならないと思い込んでいることにあります。

その苦しみの深さに気づくところから、本当の問いが始まります。

 

しかし、さらに考えてみたいことがあります。

それは、この苦しみは援助職の人だけの問題ではなく、私たち人間すべてに共通する問題ではないかということです。

私たちは相対の世界に生きています。

他人より優れているか。

他人より劣っているか。

認められているか。

認められていないか。

成功しているか。

失敗しているか。

役に立っているか。

役に立っていないか。

美しいか。

美しくないか。

若いか。

老いたか。

健康か。

病気か。

お金があるか。

ないか。

こうした比較と評価の中で生きています。

そして、この相対の世界には終わりがありません。

どれほど努力しても、

もっと上がいます。

どれほど認められても、

もっと認められたい気持ちが出てきます。

どれほど人を助けても、

もっと助けなければならないと思います。

どれほど成功しても、

失うことへの不安が生まれます。

どれほど財産を築いても、

死ぬときには持っていけません。

つまり、娑婆世界の価値観の中で安心を得ようとしても、限も際もないのです。

だから、

「もっと頑張れば安心できる」

「もっと認められれば満足できる」

「もっと価値のある人間になれば苦しみはなくなる」

という考え方そのものが、迷いの構造です

自己評価が低い人も、自己評価が高い人も、根は同じです。

どちらも相対の物差しで自分を測っています。

その物差しから自由になれない限り、本当の安心はありません。

 

仏教が説くのは、相対の世界で一番になることではありません。

比較の世界で勝つことでもありません。

評価される人間になることでもありません。

そうした終わりのない競争や自己証明の世界そのものを超える道です。

真理に気づくこと。

真理と出遇うこと。

そして真理と共に生きることです。

それによって初めて、

価値があるとかないとか、

勝っているとか負けているとか、

認められているとか認められていないとか、

そうした相対の世界に振り回され続ける人生に終止符が打たれます。

 

苦悩の打ち止めは、

自分を好きになることでも、

自信を持つことでも、

人から認められることでもありません。

ましてや、さらに人に尽くして自分の価値を証明することでもありません。

相対の世界には、どれだけ何をしてもきりがありません。

 

人間にとって本当に大切なのは、

今生、いまここで真理に出遇い、真理と共に生きることです。

そこにこそ、長い間求め続けてきた安心があり、

死によっても壊されることのない世界が開かれてきます。