さて、心に問題を抱えているのは、もちろん「ディスレクシア」の人たちだけではありません。愛着不全者、知的障害者、発達障害者。更に、前回の事例のように不登校等で悩んでいる健常者も同様です。
   問題を抱えている人は、「自分はどうして周りの人と同じようにできないんだ!」、それは自己肯定感の欠如と自分に対すると怒りです。
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この“いらだち”に共感安心に導くのが、「愛着7」の実践による、相手の“ありのまま”を肯定的に受け止める「所属と愛の欲求」の充足です。自分に自信を失っている子どもに対しては、まずはその子を見て微笑みを送りましょう。その“微笑み”によって、「今、あなたがいてくれるだけでお母さんはうれしいのよ。」という、その子どもの存在を肯定するメッセージが子供に伝わります。岡田氏は、この先入観のない肯定メッセージのことを企(たくら)まざる肯定と表現しています(岡田2011)。それは、心からその子を肯定する気持ちであり、その気持ちが“視線”と“微笑み”によって子供に伝わるのです。「愛着」を形成する上で最も効果的な愛情行為はスキンシップですが、最も日常的・継続的に行える行為は、この「見て微笑む」なのです。
   以前私が特別支援学級で受け持った知的遅れを伴った重度の自閉症スペクトラム障害の男の子がいました。当時は、感情を乱しパニックになって周囲に対して攻撃的になることが多く、時には自分の母親の顔を叩くこともありました。そこで私は、そのお母さんに、子供に接する時の“ある行為”を勧めました。すると、その後の子どもの様子は一変し、見違える程落ち着いた生活を送ることができるようになりました。本当に劇的な変化でした。その時私が勧めたその行為こそが「子供を見て微笑む」だったのです。その詳細は以下の記事でご覧ください。

 さて、これまで、引きこもりの問題を五百件解決してきた精神科医の水野昭夫氏は、「引きこもるという行為は、子どもや若者の防衛行為」「学校での、家庭での、会社でのストレスから本能的に身を守る行為」だと指摘しています(宮2014)。つまり、引きこもった子どもや若者は、様々なストレスから避難して部屋に入ったのです。母親との「愛着」が形成されていれば、母親という「安全基地」に逃げ込むべきところなのですが、母親がいつも小言を言い「安全基地」として機能していない家庭の場合は、「安全基地」は自分の部屋以外になくなるわけです。
   さらに水野氏は同著で、「(家族の間で)相手がおかしいと思っていたけど、自分もおかしかったのではないか?と、親と子供双方が気付く事ができれば、治療の半分は完了したようなもの」と指摘します(宮2014)。例えば、親はややもすると「なぜこの子は学校に行かないんだ。怠け心じゃないのか。」と一方的に考えがちですが、子どもがなぜ部屋に逃げ込んだのかという視点に立つと、避難する場所が自分の部屋しかなかったことや、親が「安全基地」になってあげれなかったことに気づき始めるわけです。すると、そこに相手の立場になって理解し合う気運が生まれ、相手を責める言動が減っていきます。子どもにかける言葉の語調は穏やかになり、子どもの苦しみに共感し始めます。ドアの壁で子どもは見えないけれど、一日中部屋の中に居ることしかできない子どもの苦しみに目を向けようとするのです。すると子どもも、以前まで度々あった親からの催促や注意が減り、逆に子供を気遣う親の言葉を聞くようになる中で、なぜ部屋に逃げ込んだのだろうか、こうやって自分の気持ちに目を向けてくれている親に逃げ込めばよかったのではないか、ということに気付くことになるのでしょう。正に、先に紹介した鯨岡先生の「子どもの『ある』を受け止めれば、子どもは『なる』(「子どものありのままを受け止めると、子どもは自分から“あるべき姿”になろうとする」)」の言葉通り、「僕、ちょっとでも学校に行ってみようかな」という前進する気持ちが生まれるのです。先の「ディスレクシア」の子供の場合は、自分から部屋を出てきて、母親に「僕を病院に連れて行ってほしい。」と自分からSOSを出したのでした。   

「不登校は99%解決する」(森田2011)の著者森田直樹氏は、その著書の中で、不登校を改善するためには「自信の水」を子どもの心の中にあるコップに満たしてあげることが大切であるということを述べています。森田氏が言う「自信の水」とは、「子どもの持つリソース(よさ、資源)」を意味しています。そして、愛情深く子どもを観察して子どものよさを探し、その良さを言葉にして子どもに伝えることの大切さを述べています。また森田氏は、「親の視線は親の愛情」とも述べています。これらのことは、まさに、「子どもをきちんと見る」「子どもに微笑む」「小さなことから褒める」といった、子どもを肯定的に認め「愛着(愛の絆)」を形成する「愛着7」と同じ意義を持っていると考えられます。