「生理的欲求」と「安全の欲求」が満たされると、次に「所属と愛の欲求」を満たしたいと考えます。
   人間は、他の人々との愛情関係、つまり自分のいる集団の中で一定の位置(自分の居場所」)を保持することを切望します。その意味で、この欲求は、人間が社会集団の中で生きていくうえでとても重要な欲求です。社会福祉学博士であり臨床ソーシャルワーカーでもあるへネシー氏によれば「乳幼児期に十分親との愛し愛される相互関係にあってはじめて、人間は人間らしく成長できる」(ヘネシー2004)とされています。この「人間らしく成長できる」ということは、人間社会の中で、自分の「居場所」を見つけることに他なりません。なぜなら、自分の「居場所を失った人間は、社会から孤立し、寂しく生きていくしか道はないからです。場合によっては、自ら命を断つことさえあり得るのです。それだけ、自分の「居場所」を見つけるということは、人間らしく生きるために必要不可欠なものなのです。
   そのために母親は、乳幼児期に愛情を込めた養育を施し、子供との間に「愛着(心の絆)」で繋がれた信頼関係を築いてあげることで、子供を母親という愛着対象の存在に所属させ「居場所」を提供します。そのことがすなわち、子供の「所属と愛の欲求」を満たすことになるのです。
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   その一方で子供は、成長とともに、「愛着(心の絆)」を形成する相手、つまり、“愛着対象”を増やしていきます。学校の中であれば担任の先生であったり親友であったり、社会に出れば異性のパートナーであったり。要するに、「この人だけは自分のことを分かってくれる味方だ」という他者の存在です。そのような“愛着対象”に当たる他者を見つけた人は、その相手の中に自分の「居場所」を感じながら、すなわち、「所属と愛の欲求」を満たしながら生活することができるのです。

 あるテレビ番組で、安楽死が認められているベルギーに、「自分は生きるのに向いていない」という理由で死を望んでいる女性がいるということを知りました。この女性は幼い頃に父親からの激しい虐待に遭っていたそうですから、「安全基地」が逆に危険な場所になり、「安全の欲求」さえ満たされなかったに違いありません。そのために、更にその上位欲求である「所属と愛の欲求」が満たしたいと思うこともなく、自分の「居場所」を失ったのではないではないでしょうか。その女性は「居場所」を失ったことで、心理的な意味で人間社会に所属できなくなり、その結果として「自分は(人間社会の中で)生きるのに向いていない」という意識を持つようになったのかも知れません。
   また、覚せい剤の所持・使用の罪で逮捕された、かつての高校野球、プロ野球のスーパースターだった清原和博は、プロ野球で自分が思うような成績を残せなくなった頃から、覚せい剤に手を出していたと報じられていました。それまで華々しい成績を収めていた時は、彼を応援してくれるファン関係者との間には“”があったはずです。しかし、不甲斐ない成績しか残せなくなり、自分を応援してくれていたファンが離れていき、薬物報道のために球界やTV界から全く相手にされなくなったと報じられた苦境生活に陥った時、彼は、この世の中の自分の味方を全て失ってしまったかのような感覚に陥っていたのかもしれません。その時に彼に必要だったのは、彼の居場所」となってくれるパートナーなり親友でした。「今まで本当にお疲れ様でした。あなたはもう十分な活躍をし、日本の野球史にその名を刻んだのです。私はいつまでも、そんな素晴らしいあなたの味方ですよ。」とでも言ってくれる相手がいれば、彼はあのような道に走ることはなかったのではないかと思います。心で繋がり、心理的な意味で所属できる誰かがいるということは、その人の人生においてそれほど大切な意味を持つのです。

   ちなみに、この「五段階欲求説」を提唱したマズローは、「『愛』とは、深く理解され深く受け入れられることである。」と述べており、同時にそれは、「二人の人間の間に存在する信頼によって結ばれた、健康で、慈しみに溢れた関係にあること」としています。まさに「愛着(愛の絆)」で繋がれた人間関係を意味しています。
   更にマズローは、「我々は『愛』を正しく理解しなければならない。さもないと、世界は敵意と疑惑の中へ滅び去るであろう」と述べています。この言葉はまさに、現代社会において、この欲求が満たされないために、人と人との絆が失われ、そのことによって、いじめや自殺、ひいては殺人等の悲惨な出来事が多発していることを予言していたかのようです。