再び、竹田城跡の記事へと戻ります
たかだか、30分程の山登り(800m)でしたが、竹田城跡の入城口にたどり着いた時は、麓の自販機で購入した「い・ろ・は・す」は飲みつくし…
おまけに、料金所のおじさんには「よく登ってきたね」と感心されました
こちらの料金所は、4:00から入城できるとのことですが、大人500円の入城料がかかり、城跡ではありますが、他の城と同じようにしっかりお支払いをしましょう💸
料金所の前で振り返ると、駅裏登山道がここまで登ってきた道
日本百名城のひとつ「竹田城」
改めて、竹田城跡の歴史や魅力について触れようと思うのですが…
竹田城は標高353.7mの古城山の山頂に築かれた山城であり、虎が臥せているように見えることから「虎臥城」とも呼ばれています。
室町時代に但馬守護・山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりと前回のブログで触れたのですが、廃城は天下分け目の戦いが行われた関ヶ原の合戦(1600年)の年…
なごり雲海
で 話を竹田城跡の歴史や魅力へと戻しますが、赤松広秀は西軍に与し、関ヶ原の合戦と時を同じくして、丹後の田辺城攻めに加わりました。
その後、西軍の敗戦を知り、竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主・亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。
なお、この焼き討ち(焦土戦術)は、赤松政広に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井玆矩の策であり、実行者の政広一人に罪をなすり付けたとする説が強いといわれています。
竹田城は亀井玆矩配下の旧城主の山名豊国により収公され、その後、江戸幕府によって一国一城令が出されると廃城となり現在に至ります。
山名氏が築城した竹田城は、その後、赤松氏が城主となって豪壮な石積みの城郭が整備され、最後は山名氏の手によって廃城となる運命を辿り…
1441(嘉吉元)年に室町幕府6代将軍の足利義教を暗殺(嘉吉の乱)した赤松満祐もよく知られている人物です。
播磨(兵庫県)を拠点としていた赤松氏は、この反乱で一度没落したものの、その後に復興して戦国時代に突入します。
最も高い地点である天守台から、その先に広がる山々とその山間の景色
そして、空に浮かんでいるように見える南千畳をはじめとした城の縄張り、確かに「天空の城」と呼ばれるわけです
立曇峡にて、竹田城跡を雲海が発生している時に望み、より「天空の城」に近づいた景色を堪能することができたのだと思うと、早朝に見たあの幻想的な光景が、“日本のマチュピチュ” と称されるのも納得
そんな「天空の城」竹田城跡の天守台とは、標高353.7mの山頂に築かれており、縄張りの規模は南北400m、東西100mに及びます。
完存する石垣遺構としては全国屈指のもので、晩秋の霧に浮かぶ姿は「天空の城」として親しまれており、また…
城跡内にはソメイヨシノ、山桜、霞桜など30本以上の桜があり、春には満開の桜を見ようと毎年多くの人が訪れるとのこと。
日本100名城に行こう🏯
竹田城を押印(20城目)
次回は竹田駅周辺を散策します…☆