河内国周遊の旅 堺市の風景「百舌鳥古墳群」② | 果てなき旅路

果てなき旅路

旅、温泉…たまには歴史。時の徒然に、好きな事を綴っております。

日本一 大規模な大仙古墳 =「仁徳天皇陵」を中心となす百舌鳥古墳群…





レンタサイクルで古墳を巡る前に、堺市博物館にて古墳群の勉強を少々…


なのだけれど、少々どころか、かなり興味深い遺物が展示されているので、結構な時間を費やしてしまった!?びっくり





そもそも前方後円墳とは、円(円墳)と四角(方墳を連結させたような形の古墳のことで、上から見ると鍵穴の形をしているのが特徴で、仁徳天皇陵古墳は前方後円墳の代表的な例です。





世界3大墳墓とされている全長486mの「仁徳天皇陵」ですが、クフ王のピラミッドが全長230m、始皇帝陵が全長350m。

ふたつの王の墓と比較すると、その規模の大きさが分かりますよねウインク




!? 大阪堺市と言えば、当然ながら「仁徳天皇陵」があまりにも有名ですが…

平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになりました。




鎌倉時代には漁港として発達し、その後、西日本の海運の拠点として発展…


そして戦国時代、堺は貿易港として黄金の時代を迎えますが、この時代、堺は対明貿易や南蛮貿易など海外との交流拠点として発展しました。





当時の堺は世界でも珍しい環濠都市を形成し、自治都市として繁栄しました。


元々、堺は平安時代の末期から、すでに鋳物事業が盛んな町でした。
※鋳物事業とは、鉄などの金属を高温で溶かし、型に流し込んで器などを作ること





河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれる集団が堺に住んでいて、後の戦国の世で「鉄砲生産地」となる “堺” ですが、鉄砲を作る鍛冶技術の下地があったのです。





その中の一人が種子島に寄った際に、鉄砲を作る技術を覚えて堺へと戻り、時はまさに戦国の世ですから、鉄砲は戦国大名たちが買い、合戦の武器となりました。





戦国大名たちだけではなく、石山本願寺も堺の鉄砲を使っていたようですが、1569(永禄12)年に織田信長が堺を支配し、「堺の鉄砲」鍛冶は、ますます盛んになりました。




1575(天正3)年の長篠の戦いでは、武田軍の騎馬隊を多数の鉄砲で破っていますから、堺の鉄砲も大量に使われたと思われます。




なお、近畿では、ほかに近江の国友、紀伊の根来の鉄砲鍛冶が有名です。





そしてもう一つ、「堺」と言えば商人の町…


千家茶道の祖であり、わび茶の大成者として知られる千利休は堺の商家に生まれ、その生涯の大半を堺で過ごしました。





名を与四郎、法名を宗易、斎号を抛筌斎と称し、正親町天皇から利休居士号を賜ります。





堺の豪商・武野紹鷗に茶の湯を習い、天下人・織田信長や豊臣秀吉の茶頭として仕えました。





とりわけ、秀吉には茶頭の筆頭として仕え、禁中茶会や北野大茶湯の開催に尽力し、世に「天下一の茶の湯者」と称されました。が…





ところが豊臣秀吉と千利休の良い関係は長くは続かず、1591(天正19)年に千利休が豊臣秀吉の逆鱗に触れ、切腹させられてしまったのです。





豊臣秀吉を怒らせた原因は、様々取り沙汰されていますが、秀吉が利休に切腹を命じた理由については、表向きには大徳寺の門の上に利休の木像を置いたことが不敬とされたというものです。





応仁の乱で焼けた寺の再建のために、千利休は多額の寄付をし、大徳寺の住職は感謝を込めて、千利休を模した雪駄履きの木像を山門に安置しました。


すると豊臣秀吉は、これでは山門を通るたびに、足で踏み付けられているも同じであると激怒。





異説としては、千利休が茶器を高額で売ったから、豊臣秀吉が利休の娘を側女に所望して断ったから、豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対したから、堺の支配について豊臣秀吉と対立したからなどがあると言います。



千利休像

このように数多くの説が出ていますが、真相は豊臣秀吉にしか分からないのです。


それを思うと、千利休が何とも不憫でなりませんショボーン





堺市博物館で古墳について少々学び、それではレンタサイクルで「百舌鳥古墳群」の古墳巡りへ出発進行あせるあせる


七観音古墳

!? そもそも、4世紀頃から7世紀世紀中頃にかけて、大和地方(奈良県南部)の豪族が、大王を中心として連合し、やがて各地の豪族をしたがえて成立した権力の形態をヤマト政権と表現しています。


寺山南山古墳

その昔、「大和朝廷」と呼ばれていましたが、ゆるやかな豪族連合の形態なので「政権」または「王権」と呼ぶようになったとのこと。





大和については,奈良時代以降の地域名「大和」と区別して「ヤマト王権」と表記することがありますが、こちらが一般的かもしれません。



展望台より望む日本で3番目に大きい前方後円墳

元々は連合体の中で、大王とも同等の立場であった豪族(氏)は、やがて、大王から姓(身分や家柄を表す称号)を与えられ、それぞれ決まった仕事を受けもって政治に参加するようになります。



果て果て、どなたの古墳だろうか??

この政治体制は氏姓制度と呼ばれており、7世紀頃になると、大王は天皇と呼ばれるようになり…





政権は天皇を中心とする中央集権国家へと成長していきました。


こうして国としての形が整った後は、政権の中央組織を「大和朝廷」と呼ぶようになるのです。





堺市博物館のある大仙公園からぐるりと濠沿いをレンタサイクルで走り、石津ヶ丘にある全長約365mの日本で3番目に大きい巨大前方後円墳のこの古墳の被葬者は…



上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)

仁徳天皇の長子・第17代履中天皇と比定されており、因みに「ミサンザイ」とは貴人の墓を意味する「みささぎ(陵)」の転訛といわれています。 




照りつける太陽の下、晩夏の古墳巡りは、まだまだ続きます🥵