河内国周遊の旅 藤井寺市の風景「道明寺天満宮~道明寺」 | 果てなき旅路

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真夏のような太陽が照りつける…


とある9月の大阪晴れ晴れ晴れ


古墳巡りには、少々、ハードな季節ではありますが、国内第2位の規模を誇る古市古墳群「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)」にて…





古墳群と言うこともあり、周りには大小様々なスタイルの古墳が点在をしますが、ここからは徒歩で、藤井寺方面へと向かいますあせるあせる





!? 何故に、藤井寺の表現を使ったかと言うと、ここはかつて、近鉄バファローズの本拠地があり、1997年に大阪ドームが完成し、チームの本拠地は移転となりましたが…





練習場及び二軍本拠地となり、その後も一軍公式戦が年間で数試合行われ、2004年をもって閉場となりましたショボーン





往年の近鉄打線は長年、クリーンナップの長打力を重視した布陣を敷くことが多く、チーム本塁打数200本以上を3度(1980年、1985年、2001年)記録しています。が…


ただ本塁打を重視するのではなく、1番打者には俊足の選手を、2番打者には巧打の選手を必ず置いており…



蓮池
古墳以外で往時(古墳時代)を偲ぶ数少ない遺構とのこと


「いてまえ打線」の真骨頂はクリーンナップによる本塁打のみではなく、集中打による得点と、クリーンナップ以外の打者による効果的な本塁打であるとする近鉄ファンは多かったはずです。





圧倒的な投高打低の現代野球では、その微塵もないのが寂しく感じすが…😢


特に2001年時は、チーム防御率がリーグ最低にもかかわらず、打線の力でチームをリーグ優勝に導いた圧倒的な火力が印象的でした爆笑





等と、20年前の野球を偲んでいるうちに、やって来たのが道明寺天満宮なのだけれど…


はてはて、道明寺天満宮とは…


お寺なのか神社なのかはてなマークはてなマーク





その昔、道明寺天満宮は、土師氏により自身の祖先を祀る土師神社として造られたことがはじまりとされ、その後、仏教が日本に伝わり、土師氏がお寺も造り…





すなわちこれは、一つの境内に神社とお堂が同居する「神仏習合」と呼ばれるもので、仏教伝来以降、明治になるまで、日本ではお互い共存していても違和感がない状態でした。





因みに、土師氏とは菅原道真と所縁があるらしく、そのため「道明寺」と呼ばれたり、「天満宮」と呼ばれるようになったとのこと。





けれども、明治時代になると、政府の方針で “神仏分離” となり、同じ境内にあったお寺がお隣の敷地に移され、それぞれ「道明寺」と「土師神社」とに分離することとなりました。





戦後になると、天皇を中心とした政治体制が終わりを遂げ、神仏分離も政策としてなくなると、土師神社は、本来、お寺と共存していた頃に戻るかのように「道明寺天満宮」という名前に戻したと伝わります。





!? もう少しだけ、菅原道真と所縁のある土師氏について触れると、そもそも道明寺天満宮が鎮座する大阪平野の南東に位置する藤井寺市は、隣接する羽曳野市と共に、「古市古墳群」があることで知られています。





元来、土師氏は古墳時代において、古墳や埴輪の造営、葬送儀礼に深く関わった氏族とされ、藤井寺市に土師ノ里という近鉄の駅がありますが、その名の通り、周辺は古代土師氏の本拠地でした。 





道明寺天満宮の御由緒によれば、第11代垂仁天皇の時代、土師氏の祖先にあたる野見宿禰が遠祖・天穂日命をお祀りしたことに始まります。






土師神社を創建したと伝わる野見宿禰は、垂仁天皇の后が亡くなった際、埴輪をもって殉死に代える案を提言したところ嘉納され、土師臣の姓を与えられたと『日本書紀』に記されています。






野見宿禰は伝説上の人物とされ、この話も伝説のようですが、ここで埴輪が焼かれていたことは事実のようです。





菅原道真と縁のある道明寺天満宮…


菅原道真と言えば “梅” …


道明寺天満宮の社殿の裏側にある梅園には紅白、しだれなど約80種、800本の梅の木が植えられており…





例年2月中旬~3月上旬には、「道明寺天満宮梅まつり」が開催されます。


また、菅原道真の命日である2月25日には、梅花祭(例大祭)が行われるとのこと。





もちろん9月は梅の季節ではありませんが、社殿裏の梅園をのんびりと散策することができます口笛




さて、道明寺天満宮を参拝した後は、土師氏の氏寺だった道明寺へ。


道明寺へは僅かな距離ですが、東高野と言う街道を歩きますあせるあせる




道明寺の歴史は、594(推古2)年に聖徳太子の発願により、土師氏(土師八嶋)が自身の邸宅を寄進し、広大な土地に七堂伽藍や五重塔を備えたお寺を創建したと伝わります。




それが道明寺の前身の土師寺とのことで、創建当初は現在地から南東に200mほど、道明寺天満宮の前(南)にあったそうです。


道明寺天満宮の南には、五重塔の礎石が残っているとのこと。





時代は下り、901(延喜元)年、土師氏の末裔である菅原道真が太宰府に左遷される際、この寺で暮らしていた叔母の覚寿尼にを訪ね、別れを惜しんだと伝えられています。





その際詠んだとされるのが、この歌です。


鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の 

なからん里の 暁もかな


こうした縁もあり、道真の死後遺品をお祀りし、道真の号である道真を寺名に用い、道明寺と改められたと伝わります。





前述をしましたが、現在地に移ったのは明治の初めですが、土師氏の時代に遡る歴史を有しているせいか、境内に佇んでいると悠久の時の流れを感じますね照れ






(=^ェ^=)





因みに、道明寺というと “桜餅” ですね。


その “桜餅” に使われている道明寺粉は、もちろんここ道明寺に由来します。





道真が左遷されると、道明寺にいた叔母の覚寿尼は毎日道真のいる筑紫に向かってご飯をお供えをしたのですが、そのお下がりを分けたところ病気が治ったと評判になり…





求める人が多くなっていったことから、お下がりのご飯を乾燥させ糒(ほしい)にしたのが始まりなのだそうです。


と言うことで、道明寺天満宮と道明寺をお参りし、この後は今宵の宿へ🌃

旅はまだしばらく、続きます…☆