長らく綴ってきた岩手県の旅路も今回で最終章😢
岩手県の北部久慈市にて、八戸へと向かう列車の待ち時間があったため、久慈駅から徒歩圏内の道の駅へ
時間をもて余すのももったいないので、道の駅を発見したので赴いたところ…
施設内には「レトロ館」があり、逆に、もっとゆっくりと見たい程の懐かしい展示物の数々…
復興の写真展には、言葉では言い表せない、心響くものがありますね。
こちらの道の駅の “山ぶどうソフト” が好評とのことで食べてみましたが、美味しかったです😋
等としているうちに久慈駅へと戻り、ここからはJR「八戸線」でさらに北上します。
それは東北新幹線が新青森まで延伸される昔のこと。
2000年前後の頃か…
20代だった頃を思い出し、感傷に耽ってしまいますが、「八戸線」も変わりましたね
とか言いながらも、ホワイトベースの赤のラインカラーの「キハ40」が5年位前まで、寒冷地を走っていたのだから、恐れいりますね
さて、このJR「八戸線」ですが、青森県の八戸駅と岩手県の久慈駅との間を、約1時間40分で結ぶ全長64.9kmのローカル線です。
使用されている車両は、キハE130系500番台(500番台は寒冷地仕様とのこと)という気動車で、基本ボックスシートで車内にはトイレがついています。
この「八戸線」は太平洋側のリアス式海岸の北側を海沿いに走り、車窓が楽しめる路線となりますが、西の五能線、東の八戸線が青森県から出発する海外沿いの車窓を楽しめる路線となりますね
もそもそも、八戸線は明治時代の1891(明治24)年、に現在の八戸駅から本八戸に支線を伸ばしたのが始まりで、その後延伸を続けて、1930(昭和5)年に久慈まで開通しました。
八戸から久慈駅からはしばらく内陸を走り、陸中中井からは海岸線にでて、太平洋をたっぷり車窓から眺められます。鮫から内陸を走り八戸駅へと至ります。
それでは約1時間40分の「八戸線」の旅、八戸駅へと向かって出発進行
前回のブログでは、昭和の町並みを想起させる懐かしいレトロ館において、「昭和30年代とはどういう時代だったのかを、日本史の教科書風に振り返ってみたいと思います」と締めましたので…
それでは「八戸線」で海沿いを走りながら、振り返りたいと思います。
1960(昭和35)年7月に成立した池田勇人内閣は、「寛容と忍耐」を基本姿勢に掲げ、新日米安全保障条約をめぐって二分した政治対立の修復を図るとともに「国民所得倍増計画」を策定し、国民の関心を「政治」から「経済」へと転換させました。
国会において池田首相が述べたのは、目標を10年間で実質国民総生産を2倍と設定し、経済成長の具体策として、社会資本の充実、石油・鉄鋼を中心とした重化学工業への転換、輸出の拡大、科学技術の振興を掲げました。
また、鉄鋼業、石油化学工業の発展は、自動車や家電産業の成長に支えられていました。
三種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)の一般家庭への普及及び自動車生産の増大は、製品が普及するにつれて市場を拡大させました。
やがて、昭和40年代初めまでに日本経済は年平均8%の実質成長を達成し、急速な成長ぶりは、国土・都市開発にも現れています。
1959(昭和34)年に着工された新幹線は、1964(昭和39)年10月、東京~大阪間が開業し、そして、同年に行われた東京オリンピックや1970(昭和45)年の日本万国博覧会の開催は、日本の経済国家としての地位を国際社会へ高らかに宣言するものでした。
※1963(昭和38)年には名神高速道路、昭和39年には首都高速道路も開通しました。
しかしながら、先進国の例を見ないスピードでの経済成長は…
文字通り「経済優先」でした。
その結果、水俣病等の公害病の拡大や、拠点開発地域及び大都市部における自然環境の破壊を招きました。
これに対して、1967(昭和42)年には公害対策基本法が制定され、1971(昭和46)年に環境庁(環境省)が発足しました。が…