広島平和記念資料館にて…
当館は原子爆弾による被害の実相を世界中の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的に、1955(昭和30)年に開館しました。
一発の原子爆弾が無差別に多くの命を奪い、生き残った人々の人生も変えました。
広島平和記念資料館は、被爆資料や遺品、 証言などを通じて、世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を伝え、ノーモア・ヒロシマと訴えます。
アメリカ軍による非人道的な原爆の投下…
何れにしても、アメリカの論理としては、早く戦争を終結させたかったということでしょう。
しかしながら、アメリカによる原爆の投下によって、何の罪もない人々の尊い生命が奪われたことを、決して忘れてはならない。
どれ程の生命が、その爆弾の威力で失われるか等の実験は、もはや、人間の所業などではなく、正気の沙汰ではない。
資料館での展示の数々を一通り見終えると、決して軽い気持ちでは収まらないほど、全身が揺さぶられる感覚に陥りました。
生きるとは何だろうか
生きているとはどういうことだろうか
そんなことを強烈に考え、感じざるを得ない時間であり、また、こうした展示を見て強く感じたこと、それは自分は生かされているということでした。
普段、生きることについて考える時、そこには当たり前のように命がある状態を想定しますが…
その前提が崩れた時、命あることが当たり前でないと知った時、今、私が生きてるこの状態は…
もしかすると、生かされている状態なのではないかと、そう思いました。
今、生きているということは、何かしらの意味があって生かされているのかもしれない。
自分の周りの人を大切に、そして目の前の出来事を大事に、今日、明日を生きたい、展示を見終えた時、そう思ったのです。
この広島の地では、欧米やアジア、大変多くの外国の方々の姿を見ました。
日本には本当に多くの素晴らしい観光名所がありながらも、何故に広島、そしてこの広島平和記念資料館を訪れたのでしょうか。
広島平和記念資料館の最初のブースに踏み込むまでは陽気だった彼らも、出口にある椅子に腰掛けると、ある人は目をつむり、ある人は涙を浮かべる、そんな光景がとても印象的でした。
戦後、この被爆した原爆ドームについては、保存の考えに賛成する人たちばかりではありませんでした。
原爆ドームが被爆の悲惨な思い出につながることから取り壊しを望む声もあり、 保存と取り壊しの方針が決まらないまま、長い間、そのままの状態となっていました。
年月とともに原爆ドームの周辺、壁には雑草が生い茂り、建物も壁には亀裂が走るなどの痛みが進行し、小規模な崩壊、落下が続いて、危険な状態となりました。
保存が本格化するきっかけと言われているのは、一歳の時に被曝し、15年後に白血病で亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記でした。
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでもおそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう・・・」
と記されたヒロ子さんの日記に、心を打たれた人々によって、原爆ドーム保存への運動がはじめられたとのことでした。
今回の旅で、この広島の地に立つと、様々な思いが胸中を去来し…
今、こうして自由気ままに旅を楽しんでいること、不平不満がありながらも仕事が充実していること…
そして何より、これまでに一度もコロナにかかることなく、風邪すらひかない健康な身体でいられることに感謝しかありません。
やがて、広島を去る時間となり広島空港へ✈️
羽田空港へと向かう飛行機に搭乗する前に、遅めの昼食 & 早めの夕食をこちらで…
ロイヤルホスト広島空港店
まだ日中なのに、昼ビールを失礼して(笑)
最後に広島で “牡蠣” が食べれて良かった、カキフライカレーだけれど
雨に始まり、雨で終わった広島の旅路…
但し、広島城や広島平和記念資料館など、室内で過ごせる施設では雨は関係なく…
尾道や宮島では天候に恵まれ、梅雨の合間の旅路となりましたが、素晴らしい旅となりました。
広島空港17:50発、JAL264便で帰路へ…
飛行機に搭乗したタイミングで陽射しが差してきたのもご愛敬…
2010年以来、本当に久しぶりに広島の街を歩きましたが、その当時から広島はインバウンドに人気のある街で…
けれども、その時とは比較にならないほどのインバウンドの増加…
特に、広島平和記念資料館は、ただただ、観光名所だから訪れるのではなく、そこで展示されている遺品、遺物、写真を望むことで…
戦争とは何か、平和とは何かに対し、世界中の人々が真剣に向き合うことで、自国へと戻り、「ノーモア・ヒロシマ」と平和への希求を深めて頂ければ幸い。
そんなことを最後に、広島で切に願う、旅路となりました。
広島編の旅、大変長いシリーズとなりましたが、最後までお付き合い頂き、ありがとうございましたm(_ _)m
次回は、新シリーズ…
この旅路も長くなりそうです