広島は路面電車の走る街でもあります。
一般的な車両に乗車していると、音や振動をしっかり感じられるところも路面電車ならではであり、そんな路面電車は良いところは残しつつ、近年は人と環境に優しい世代型のライトレール(LRT) などの新しい文化も生み出しています。
そもそも、路面電車の歴史は古く、1885(明治28)年に日本で初めて路面電車が開通しました。
京都電気株式会社の車両が京都市内を走るようになり、その後、大都市を中心に大正から昭和にかけて 路面電車の全盛を迎えます。
1932(昭和7)年には、全国67都市、83事業者と需要を伸ばしますが、1965(昭和40)年以降、急速のモータリゼーションやバス、地下鉄への転換により 衰退していきます。
路線数や電停数、車両数、利用者数も多い広島電鉄の路面電車、愛称は「広電」
被爆した車両が今も現役で走っており、歴史の深さとたくましさを感じることができますね。
広島平和記念公園や原爆ドームをはじめ、様々な観光スポットにもつながっています。
路面電車を使った旅は、鉄道好きや写真好きの人にとっても楽しい旅。
最盛期より数を減らしている路面電車との出会いは、貴重な経験、町の風景と溶け込んでいる昔ながらの路面電車は、ノスタルジックな鉄旅が楽しめます。
原爆投下の際、目標とされたT字形の橋 = 相生橋より原爆ドームを望み…
原爆ドームとは、ここで今さら説明する必要もないでしょうが、第二次世界大戦末期に、人類史上、初めて使用された核兵器により被爆した建物です。
ほぼ、被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の惨禍を伝えるものであり…
時代を超えて、核兵器廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける、人類共通の平和記念碑でもあります。
原爆ドームの元の建物は、チェコ人の建築家であるヤン・デツルの設計により、1915(大正4)年に広島県物産陳列館として完成しました。
建物はレンガ作りの3階建てで、正面、中央部分は 5階建ての階段室、その上に、楕円形のドームが載せられていました。
広島県物産陳列館は、県内の物産の展示や即売、商工業に関する調査、相談などの業務を行っており、美術展や博覧会などの文化事業の会場としても利用されました。
一瞬のうちに、広島市街地の建物が倒壊し、多くの人々の生命が奪われました。
戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円盤鉄骨の形から、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
そもそもアメリカ軍は何故に、2度も原爆を投下したのでしょうか?
当時の日本の状況は、日本以上に客観的な立場で見ているアメリカの方が分かるはずで、もはや、日本には戦争を続けるほどの余力はなく…
原爆を投下する必要性は全くなかった
では何故、その狂気に踏み切ったのか?
① アメリカは当時、日本をできるだけ早く降伏させて、アメリカ軍の犠牲を少なくしたいと考えていました。
戦争が長期化しており、ここで戦争を終わらせることで、原爆投下の正当性を国民に見せつける必要があった。
② さらにアメリカは、世界最初の原子爆弾を1日も早く実戦で使い効果を測定したいと考えていたようです。
結果を言ってしまえば、2つの原爆に使用された爆弾の燃料が違い、その脅威 =「核」がもたらすその破壊力を知りたかったのです。
ウランとプルトニウム
ウランは広島で8月6日に、プルトニウムは長崎で8月9日に、爆撃機「B-29」によって投下されたのです。
③ 連合国側は、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談でドイツの降伏後、3ヶ月以内にソ連が対日参戦することを極秘に取り決めていました。
従ってアメリカは、それ以前に原子爆弾を日本に投下し、戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えるようになったのです
次回は広島平和記念資料館での模様、そして、長々と投稿をしました「広島編」の最終章となります。