平安時代を想起させる寝殿造りの厳島神社…
社殿の背には山岳信仰の対象であったとされる弥山がそびえ、自然景観と建築美の調和が全て綿密に計算された上で成り立っていると言われています
言い換えれば、厳島神社は元々、宮島の入江に建てられたおり、創建当時からこの潮の満ち引きを計算されて造られたものであると考えられています。
そのため、それに耐えうるだけの技術力が厳島神社にはあることを象徴しているとともに…
平安時代の建築様式を伝える上でも、非常に歴史的に価値のあるものであると考えられています。
また厳島神社では、社殿の全面には能舞台や重要な儀式の場となる庭や池等も造られており…
前編で厳島神社には “3つの見所” があると触れた2つ目の見所、日本で唯一、海に浮かぶ能舞台がこちらとなります。
1568(永禄11)年に観世太夫が宮島において、初めて能を演じたとされ、観世太夫は能を大成した観阿弥の子です。
そして宮島初となる能から約40年後、1605(慶長10)年に福島正則が常設の舞台を造営し、老朽化や災害で2度再建されており、現在の舞台は創建時の舞台を1994(平成6)年に復元したものとのこと。
朱色の艶やかなる社から一変して、古からの文化と伝統が感じられる能舞台です。
そして最後の3つ目が反橋ですが、かつて勅使がこの反橋を渡り、本殿に入ったことから「勅使橋」とも呼ばれています。
斜面が急なため、渡る時はには仮設の階段が設けられていたとも言われ、反橋の柱上部に擬宝珠と呼ばれる飾りが付いており、その一つに毛利元就が再建したことを示す国名があるとのこと。
反橋の上を歩くことは出来ずまた、出口付近にひっそりとあるので、気付かずに通り過ぎてしまわぬよう注意が必要です(笑)
こちらが出口、30分ほど厳島神社の社殿を見学をして…
もうすぐ17時となりますが、まだ日も明るいので周囲の散策へ
ところで、平氏には「平家」という呼び方もあるのですが、一方、源氏には「源家」という呼び方はありません。
その理由は何なのでしょうか
「平家」とは平清盛の一族をだけを指す呼び方でって、つまり「平家」とは平氏の中の一部(平清盛の一族)だけを指している呼び方なのです。
ではなぜ、「平家」と呼ばれるようになったのかと言いますと…
平安時代の保元・平治の乱で勝利をしたのが平清盛で、その後、武家政権のトップに君臨し、強大な権力を手に入れたからとされています。
「平家(平清盛の一族)にあらずんば人にあらず」という言葉が残っていますが、いかに平清盛が強大であったのかが理解できます。
故に『平家物語』も平清盛の一族について書かれた書物であり、平氏全般の物語ではないのです。