越後の国分寺は、本尊を大日如来像、薬師如来像、宝生如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の五智如来を祀っていることから「五智国分寺」とも呼ばれています。
しかしながら、創建から次第に衰退していったとされ、創建当時の位置は不明であって、一説では境内が海中に没したという説も伝えられています。
1835(天保6)年再建の仁王門、 その仁王門に安置されている阿吽像がモダン的なのが印象的です。
さて、上越と言えば、戦国時代最強の武将・上杉謙信が治めた領地ですが、当然ながら、上杉謙信に関する史跡や寺院も多く…
五智国分寺からは春日山方面へ向かってウォーク
五智国分寺の山門を出るとすぐに、居多神社の鳥居を通過するのだけれど、親鸞聖人上陸の地に行ってしまうと、南側に面した山門からお参りが出来なくなるので注意⚠️
※鏡ヶ池の方面の山門からとなります
雲ひとつ見当たらない5月の空の下、春日山方面まで結構な距離を歩くこととなりますが…
線路脇を歩いていると、雪が深いことを示す案内が出ていたりなど…
この地が雪国であることが分かります
列車の走る音がすると、とりあえず、電信柱があろうが、シャッターを切ってしまう撮り鉄時代の性
しばらくてくてくと歩き、閑静な住宅街の中を歩いていると…
緩やかな坂道を歩くこととなり、ようやく、次なる目的地へとたどり着きました。
ルートが変わると、この階段を昇ることとなるのですが、先ほど私が歩いて来た道は、車でお参りする方の駐車場へと続く道
◯春日神社
958(天徳2)年に春日山山頂に創建。
越後守護代 上杉氏の氏神として栄え、奈良春日大社の分霊を祀り、春日山城の名前の由来ともなったと伝わります。
春日山城築城の際に、城の鬼門となる現在の位置に遷座したと言われており、天を突くように伸びる杉木立の参道と急勾配の石段が印象的な名跡。
現在の場所に遷座してから600年の歴史があり、社殿は老朽化のため、これまで4年かけて全面的な改築が進められて、2020(令和2)年春に完成しました。
春日神社の改築は、200年前の火災による消失以来とのこと。
次の目的地へと向かうため、急勾配の石段を下ったその途中、振り返ると、社殿があまりにも神々しく…
以前お参りした際は、当然ながら、旧社殿の時であり、社殿が新しくなったことは知らなかったので、違う神社へと来てしまったのかと錯覚
但し、石段や杉木立ち、境内に立つ春日灯篭は変わることなく、因みに、春日灯篭は江戸時代の作と言われています。
で とは言いながらも、この日は結構な距離を歩き、けれども、上杉謙信ゆかりの地 ”巡り” はまだ、終わりません
◯林泉寺
寺の入り口にあるこの惣門は、上杉謙信の手によって春日山城から移築されたものと伝えられています。
この山門も上杉謙信によって寄進されましたが、かつて地震により焼失し、現在の山門は大正時代に再建されたものです。
この山門には、上杉謙信直筆の「春日山」と「第一義」の額が掲げられています。
仰心が深く “義” の人として知られた上杉謙信ですが、その思いがこの「第一義」という書に込められています。
山門に入り中程で真上を見上げると、「越後の龍」と言われた上杉謙信を彷彿させる迫力ある龍の画が描かれています。
上杉謙信の生涯の勝敗は、43勝25引き分け2敗と言われ、戦国大名の中でトップの戦績を誇る武将でした
言い換えれば、上杉謙信が合戦に敗北したのはわずか2回とされており、その2度の合戦とは、1561(永禄4)年の生野山合戦と1566(永禄)年の臼井城合戦のことですね。
詳細は省きますが、生野山合戦とは北条氏政軍との戦いですが、武蔵生山(本庄市児玉郡八幡山付近)で両軍の兵士が戦い、氏政の兵士が「越後衆を追い崩した」という記録があります。
一方の臼井城合戦とは、北条方の臼井城(千葉県佐倉市)を攻めて、落城寸前まで追い詰めますが、城主・原胤貞は防戦に努めますが…
北条方から派遣された松田康郷の活躍により、上杉謙信らを撤退へと追い込み、「越後衆を討ち取りけり」という大戦果を挙げたと伝わります。
林泉寺から春日山城へ
この旅は、まだまだ続きます…★