久しぶりの訪問となる新潟県上越市。
直江津駅で次の列車を待つだけだったので、観光をした記憶は薄く、今回本当に久しぶりの直江津なので “巡り” ましょう

◯居多神社
上越市にある越後国の一宮となる居多神社は、越後国の国府があった地とされます。

神社を訪れると、ピリッと静謐なる空気が漂うものですが、居多神社は階段を昇りきると、広い空間が緑で覆われ…

聖域一帯に、穏やかな空気が流れているようで、とても心が落ち着きます
越後国府に流罪となった親鸞も、居多神社に最初に参拝したと伝えられ、僧侶である親鸞もまた、この神社の雰囲気に和まされたのでしょうか。

『古事記』には、大国主神が高志国(越の国)の沼河(糸魚川と推測されています)に住む、沼河比売を妻にしたと記されているので…

出雲の神様(大国主神)が、越の国の女神を后にしたと考えられています。

また、927(延長5)年編纂の『延喜式神名帳』にも、居多神社と記されており、中世には越後国守護の上杉家に尊崇され、越後国一の宮とされています。

戦国時代には、上杉謙信の後目争いなどの戦火で社殿が焼失しています。が…

現在地に遷座した際の社殿は、1902(明治35)年の火災で消失、その後、仮社殿でしたが、2008(平成20)年に本社殿が再建されたとのこと。

ここ新潟県上越市は、親鸞のゆかりの地とされているので、史跡を巡って行きましょう


横断歩道を渡ると海が見えます

直江津の「津」は、港という意味があるので、名前からしても、直江津が海に面しているのが分かります。

5月の空、青空が広がり、心地の良い海風が吹き抜けて行き、この地こそが…

◯親鸞聖人上陸の地
浄土真宗の開祖・親鸞聖人が、1207(承元元)年、比叡山や興福寺など旧仏教側からの激しい非難や迫害 = 承元の法難(念仏弾圧)により…

越後国府に流罪となったのは、今から800年前のことと言われています。

配流の身となった親鸞は居多ヶ浜に上陸し、罪を許されるまでの4年、さらに常陸国に旅立つまでの3年、計7年をこの地 = 越後で過ごしたと言われています。

この間、恵信尼と出会い結婚、子供に恵まれ、親鸞は恵信尼に支えられ、その信仰を深めていったと言われています。

親鸞が著した『教行信証』には、「海」とつく言葉が繰り返し出てきており、これは越後国府での生活が、親鸞の思索に深い影響を与えたという証とされています。

続いて訪れたのが、親鸞聖人上陸の地からほど近く…
◯五智国分寺
こちらの国分寺は、今から1200年ほど前の741(天平13)年に、聖武天皇が日本の平和と繁栄を祈願して、国分寺建立の詔を発布し、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立された「越後国の国分寺」となります。
ご本尊が五智如来なので「五智国分寺」とも呼ばれています。
しかしながら、740年代(天平年間)に聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は諸説あり、現在は分かっておりません。
1562(永禄5)年、近隣の春日山城主・上杉謙信によって、現在の場所に再建されました。
その後、幾度となく災興を繰り返し、江戸時代には、1689(元禄2)年、1794(寛政6)年と火災に遭い、その後の再建、修復を経て、現在に至っているとのこと。
そしてこちらの五智国分寺もまた、1207(承元元)年、承元の法難(念仏禁止の弾圧)で流罪となった親鸞聖人とは縁が深く…
その時、国分寺の住職は親鸞とは比叡山で同学の友だったので、国司(越後国国衙の長官)に申し出て、境内の五仏(大日如来とその徳から生じた四仏)のそばに草庵を結び、この国分寺に住むことになったと伝わります。
その草庵は竹林に囲まれていたので、竹ノ内草庵と呼ばれるようになりました。
また草庵には、親鸞が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池(10枚前の画像)に姿を写し刻まれた親鸞聖人坐像が安置されています。
境内に一際目を引く三重塔は、1794(寛政6)年の火災によって一度は焼失しましたが、1856(安政3)年から再建が始められましたが、高欄(転落防止などに取り付けられる柵)などが未完成のまま、現在に至っています。
未完成のままの建造物といえば、日光東照宮の「陽明門」を思い出しますが、日光東照宮の陽明門は豪華なだけではなく、その設計には重要な意味が込められおり、未完成と言われる場所は、陽明門を支える柱にあります。
門は計12本の柱によって支えられていますが、そのうちの1本は逆さに取り付けられており、柱に施されたグリ紋(中国の堆朱のデザインなどによく見られる曲線)も逆さになっています。

日光東照宮「陽明門」
これは「完成したものはそこから崩壊が始まる」という考え方から、わざと1本を不完全な逆さ柱にすることで、永遠に未完成であることを表現していて、魔除けの意味を持っているそうです。
五智国分寺の三重塔が未完成なのには、果たして、どんな意味があるのか


次回も上越市の風景です。