伊豆の国市 鎌倉〈殿〉散歩 後編 | 果てなき旅路

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旅、温泉…たまには歴史。時の徒然に、好きな事を綴っております。

再び、「北条氏の里」、伊豆の訪問記に話しは戻り…





もう少しだけ、真珠院の見所をキョロキョロ




静岡県最古とされる1302(正安4)年の記念銘が刻まれた五輪塔。




1363(貞治2)年の刻名のある磨崖仏。


墓地近くの岩壁に刻まれているが、風化磨耗が激しく、けれどもそれは、この地に700年以上の時を刻んだ証拠でもあります。




まだ蕾の状態のものも多かったが、川沿いに咲き始めた彼岸花…




狩野川沿いに位置するこの辺りは守山と呼ばれ、山を囲むように多数の中世の遺跡が残っており、発掘調査研究が進められています。

そんな守山をぐるりとし、次に訪れたのが…




●史跡北条氏邸跡(円成寺跡) 

現在の北条氏邸跡は、20年以上にわたり発掘調査が行われ、現在は調査成果に基づいた整備が計画されています。 




円成寺は、鎌倉幕府第14代執権北条高時の母・覚海円成(円成尼)が、北条一氏の菩提を弔うために、北条氏邸跡に建立した寺と伝わります。




ガラス面の赤印で、当時の館の様子が伺えるのがとても興味深いおねがい




まだまだ、「北条氏の里」の散策は終わらず、途中、狩野川沿いの土手を歩き…




その狩野川を渡る橋があまり無いのだけれど、但し、この松原橋を渡ると…




北条氏のゆかりの地と再開ウインク




●豆塚神社

豆塚神社は古代から伝わる大男山の岩得高神社より遷座したとされ、江戸時代には江間(馬)大明神とも呼ばれ信仰を集めた神社です。




当神社には、江戸時代中期の1740(元文5)年に書かれた「霊社再修造之梁銘」が伝来し、梁銘には神社の由来とともに「土御門天皇時代に北条義時がこの地に社殿を移し、新しく社を建てた」という一文があるとのこと。 




豆塚神社からは、若干、戻るような場所にある北条氏ゆかりの地が…




●北条義時邸跡 

伊豆の国市の江間公園の辺りは、北条義時の居館があったと伝わる公園です。

公園の一角には、北條義時(江間小四郎)屋敷跡の石碑が残っています。




!? 北条義時邸跡から歩くこと5分程で、この日最後の目的地が…





●北條寺

北條寺は北条義時が長男・安千代のために建立した寺院です。





拝観料500円を支払い、さらに御朱印と武将印を購入ニヤリ




北條寺本堂では、当寺に伝わる寺宝の一つである阿弥陀如来坐像が安置され、仏師集団・慶派による作品であり県指定文化財となっています。 




撮影が不可だったために、パンフからですが、気品漂う表情に写実的な衣文、厚みのある体躯には、鎌倉時代に活躍した慶派の特徴がよく表れていると言われています。

この仏像は、北条義時が亡き安千代の冥福を祈って造立したと伝わっていますね。 




その他にも、室町時代の観世音菩薩坐像(県指定文化財)や北条政子が寄進したと伝わる牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)など、数多くの貴重な寺宝を有しています。 




そうそう北條寺は白の彼岸花が有名とのことで、境内付近は満開で見頃でした。




さて、最後に北条義時に手を合わせて、この日の旅は終わるのだが、やはり墓道は山登り🥵




境内にある小高い山の上には、北条義時夫婦の墓が静かに佇んでおり、なおこの墓は、向かって右が義時の墓とのことで…




この時代に何を想う、義時





この日の旅はこれにて完了

折角、伊豆まで来たので、この後は伊豆長岡温泉まで歩いて、そこで1泊♨️




ところで先週の「鎌倉殿の13人」ですが、またもや名台詞がありました。

それは泰時の妻はつのセリフ…

泰時 何にもわかってない、父(義時)は何もわかってない 

はつ あんたよ

泰時 私

はつ 父上(義時)は自分のようになるなと言いたかったの。 




鎌倉を守るため、義時はどんどんとダークな
存在へと変貌していきますが、そんな父の姿を見せ、父義時の実直さと母八重の優しさのハイブリッド泰時には…

真っ直ぐな信念で、混乱の無い世の中を築き、鎌倉殿を支え欲しい

そんな義時の心情を、その行動から察した泰時の妻はつ。




このような切れ者の妻に支えられてか、泰時は以下のような歴史的偉業を成し遂げています🤭


狩野川の分岐、本流は川の水が流れているが…

ここで北条泰時について、軽く触れたいのですが、泰時は鎌倉幕府第3代執権。

歴史の舞台に現れるのは、後鳥羽上皇との決戦=承久の乱の時で、北条義時の弟時房と共に朝廷軍を壊滅させて京都を占領し、乱後は六波羅探題として京都に残りました。 


分流はなんと、水が無い😮

父であり2代執権であった北条義時が死去すると泰時は執権となり、評定衆を置いて独裁色の強かった幕府を合議制と転換させ、1225(嘉禄元)年に連署という職を設け、共に六波羅探題を務めた叔父の北条時房をこれにあてました。

また1232(貞永元)年には、御成敗式目を制定し公平な裁判の基準としました。 


しかも、分流には謎のトンネルが…🙄

ここでいくつか歴史起用が出てきたので整理すると、連署とは執権の補佐役であり、以後、北条氏の有力者が任じられることとなりました。

さらに政務に精通した11人の御家人からなる評定衆を設置しました。

評定衆とは幕府意思決定の最高機関たる評定の構成員であり、執権、連署と共に重要な政務を議論し、そこの採決にも携わったのです。 

御成敗式目とは制定時の元号から貞永式目とも呼ばれ、武家の根本法典として、文章はあまり教養のない武士達にも理解できるように平易に記述されています。

貞永式目は51条から成る簡素なものですが、源頼朝以来の先例や道理に準拠しながら行政、民事、刑事訴訟に関する大網を盛り込んでいました。 




そして何より泰時は、御家人の意見をよく組み上げる人事を行い、彼らを中心に執権を位置付けることで、 その治世は現在でも高く評価されています。

つまりは有力な御家人に対して、討伐することはなく、あの三浦氏が滅んだのは、北条泰時の孫・鎌倉幕府第5代執権時頼の治世(宝治合戦)




等と語っているうちに、約30分程歩いて、今宵の宿のある伊豆長岡温泉に着いた模様。


伊豆の旅、次回が最終回です…⭐