旅行記とか海外生活エッセイが多分この世で1番好きかもしれない私ですが、今読んでいるのはオードリー若林さんのキューバ旅行記「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」です。

 

若林さんの著書「ナナメの夕暮れ」を読んでの記事

丸ブルーオリジナルであること

 

その冒頭にこんな文章がありました。

 

カストロのDVDは何作品か見たのだが、アメリカが制作したある作品ではまるで悪の総督のように描かれていた。

そして、ヨーロッパの国が制作した作品では気さくかつ正義感あふれるヒーローとして描かれていた。

 

作り手の違いによって、同じ人物でも印象が全然違う。

どちらもカストロの一面であり一面でないのだろう。

 

 

 

 

最近Xかなにかで、子犬をトルクメニスタンの大統領からプレゼントされるプーチン大統領の動画を見ました。

あろうことかトルクメニスタンの大統領が渡す前にわんこの首根っこを掴んで上に掲げてて、「こいつは本当にまともな人間なのか?」と震えたんですけど。

 

その後、愛犬家のプーチンにそのわんこが渡されたとき、すごく大事そうに抱っこしてて「え、待って、めっちゃいいやつやん」って奇しくも思ってしまったんです。

トルクメニスタンの大統領のことは一切知らないですけど、これだけ見てたらその人のほうが悪の総督やんと思ってしまう。

コメント欄でヒトラーも大の愛犬家だったとありましてね、ふむ・・・と思いました。

 

本当にどこを切り取るかだよなぁ、て思うし、どれもその人だよなって思います。

どれもプーチンの一面であって、一面でないんだなと思う。

 

 

 

 

結局は見る側がどこを見ているかだし、その人の価値観だなって思います。

対象者は何も変化してないけど、観察者が何を正義として、何を正しいとしてるかっていうことの差だとも思うし、どこを見るかによって違いますね。

 

って思うと、占いも何事も偏りなく見れることが重要だと思いますが、もちろんその人の価値観が入るのって仕方がないと思うので、鑑定してもらう場合はそういうのは見極めることは大事だなとも思います。

 

何言われても傷つかないで「なるほど、あなたはそう考えますか」って思える人は何でもいいと思うんですが、自分が求めているものと違った、みたいなことを言うような相手への期待が大きい方は自分がちゃんと選ぶべきなんじゃないかなって思う。

 

ってかこれは自分の最近の気づきですが、何事も「がっかりする」って結局相手が悪いんじゃなくて、全部自分の期待が大きかっただけなんだなと思います。がっかりしたな、って思ったら「自分は何を期待してたんだろう?」って考えることが大切なんじゃないかな、と思う。

それも結局自己理解だと思います。

 

 

 

 

 

話がそれてますが、これまたそれていくと、今日ラインニュースで95歳の同性愛者の男性の記事を読みました。

かつては同性愛は“ 治療可能な精神疾患 ”だとされて、「ものすごく生きづらかった」と。

職場の人に結婚しないのか?と聞かれることが億劫で仕事を何度も変えたり、家族とは疎遠になったりしたそうです。

 

その方が最近渋谷で行われたプライドパレードに参加して、世の中の変化と同性愛者の方が多くいることをはじめて知ったということで、これ読んでめっちゃ泣いてしまいました。

この方が自分の幸せだと思うことに忠実に生きれる時代であったら良かったし、そういう価値観を持つ人に巡り会えていればよかったなって勝手に思ってしまいますが、それは彼の運命だったのかなとも思います。

そういう苦悩が文学への才能になったことが「僕の誇り」だと話していたので、それはそれで良かったんだろうと思います。

いいも悪いもないんですけど。

 

でも、やっぱり何かを一方的に善・悪としないような自分ではいたいし、そういう社会であればいいなと思いました。

 

それで最後にまた若林さんのキューバ旅行記の本の一節なんですが。

若林さんがいろんな社会の知識を学ぶために雇っている家庭教師さんとの会話です。

 

「先生、知ることは動揺を鎮めるね!」

「若林さん、学ぶことの意味はほとんどそれです」

 

知見を深めることは自分にとっても相手にとっても社会にとっても大切だなと思いました(話がごちゃごちゃ)