前の日記で、後述すると言っていた。メイン・サンクチュアリー(訳して中央聖域?)での体験について記す。

この日は、前述のように疲れていた。疲れていたので瞑想しても眠くなる。
この場所は瞑想用に作られているのだが、たしかに瞑想には持って来いである。静かだし、日が当たりすぎることもなく、温度は暑くもなく寒くもなく、いすの座り心地はよく、お尻が痛くならない。
瞑想は寝ては駄目だと言われるかもしれない。しかし、僕の経験ではきちんと眠って目が覚めたあとが面白い。眠くないのだが、かといって何かに気がそがれることもなく、集中して受け入れるような状態になる。
この日は、居眠り状態を含めて2時間以上は瞑想したのではないだろうか。
そのような状況で、僕は、自分が英語で、
「I don't need a guide. 僕にはガイド(指導霊)は必要ありません。」
という言葉を繰り返し言っているのに気づいた。どうしてかは分からなかった。今考えてみると、
「何かが来る!」
と、構えていたのかもしれない。すると、次のようなインスピレーションが英語で湧いてきた。
***
You don't need a guide. あなたにはガイドは必要ありません。
But you need an experience. あなたに必要なのは経験です。
People's suffering, anger, and despair. 人々の苦しみ、怒り、そして絶望を経験することです。
Then you are a guide. そのとき、あなたがガイドになるでしょう。
There's no sky, no ocean. 空はありません。海もありません。
Everything is connected. すべてのものがつながっているのです。
It is too late to escape. もう逃げ出すことはできません。
You don't need a guide. あなたはガイドを必要としていません。
You are a guide. あなたがガイドなのです。
***
とにかくびっくりした。英語でインスピレーションが浮かんでくることなんてはじめてだからである。そして、その内容は思いも寄らないことだった。言っている意味は、非常に唐突である。もしかしたら、新型インフルエンザのために5月後半のアメリカ行きをキャンセルしようかと考えていることと関係しているのかもしれない。
いや、それ以上のことを示唆しているのかもしれない。僕は、今回の旅を通して、スピリチュアリティに関わる場所を実際に見て知識を深めようと思っていた。同時に、どこかで自分自身何かスピリチュアルなものを求めていたのかもしれない。しかし、また、僕はいわゆる「スピリチュアルな人々」に距離感を持っている。彼らが大事にするものを否定しようとは思わないが、自分自身どっぷりハマろうとは思わない。既存の宗教文化や哲学思想の深い部分に比べると、浅薄な部分があるのは否めない。が、それで片づけられるとも思わない。ある種のスピリチュアルな考え方には、生きるうえで人を力づける何かがある。宗教の神学や哲学思想は抽象度が高すぎて、そのような力を持ちえない。アリストテレスやカントよりも、江原啓之のほうがずっと生きる力を与えられると言う人は多いだろう。
僕は、どっちか着かず。あるいは、アンビヴァレント。しかし、だからこそ、「スピリチュアル」な人と、アンチな人とのあいだをつなぐことができるのではないか。
そのような僕に挑んできたインスピレーションである。もちろん、インスピレーションとはその人が無意識的に考えていることを表しているとも言える。だが、インスピレーションとは、普段考えていることとは違う内容を持つものである(そうでなければ「はっ」とさせられることはないだろう)。だから「驚き」をもって迎え入れられる。それは自分のなかから出てきたことなのかもしれないが、現在の自分を超えているのである。同時に、それはどこまでも、「自作自演」の可能性をはらんでいる。
今回のインスピレーションは、僕に「世界の悲惨さ」を体験せよといっている。自分だけ無縁であろうとするな。いや、それはもう遅い、と。何て残酷なことを言うのだろうと思った。
それどころか、「スピリチュアル」の後追いをするのはもうやめろ、と言っているようにも思える。傲慢だろうか。宗教学者が「後追い」をやめるときは、宗教学者をやめるときである。自己反省性を失って、独善的になるのはいやだ。
僕は、あくまでこの「声」と対等に接することにした。
結局、自分は自分の場所でできることをするしかないのである。ややもすれば、このような声に盲従すると、自己満足と自己犠牲に引き裂かれた矛盾した人格になる可能性がある。
しかし、僕はこの「声」を、旅の一コマとして捨て去るつもりはない。
一生忘れることがないだろう。
そして、それが自分にとって何を意味するかを繰り返し考えることになるだろう。
それが対等に接するということで、僕が言いたいことである。






































