縄文家族|天竜楽市 -9ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



縄文講座、皆様のご参加をお待ちしています(•ө•)♡

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( ・ิϖ・ิ)っ

縄文時代、まだまだわからないことばかりです。


なんじゃこりゃ(*º ロ º *)!!

縄文時代の土製スタンプとされているモノですが、
ラテン文字(BC7世紀頃~)の、

c,d,e

によく似た記号が刻まれています(˶˙º̬˙˶)*॰


三足土器

中国の仰韶文化(BC5000~3000、黄河中流域)に見られる器形ですが、

基本的には、

日本列島の縄文時代には「あってはいけないもの」(笑)(*´∀`*)

なので、考古館などに自主規制🙈🙉🙊の闇を掻い潜って展示される例は稀なのですが、

各地の埋蔵文化財の保管庫にはわりと死蔵されているようです(笑)

( ・ิϖ・ิ)っ

教科書的には、

日本列島の縄文時代は大陸から孤立し、

農耕が世界で最も遅くまで開始されず、

弥生時代になって朝鮮半島から渡来した人々が、

稲作と金属器の優れた技術を持ち込み、

未開の縄文人を蹴散らして

原始的な生活から脱却したニダ(`Δ´)!

と、されてきました。


縄文時代らしからぬ遺物を展示するのはケシカランヽ(≧Д≦)ノ

そうした

上からの指示

を掻い潜って、ひっそり展示されている「ありえない遺物」は、在野の考古学芸員の「秘かな反乱」であると言えます。

東日本の考古館を訪れ、縄文の展示を見られる方は、そうした「ありえない遺物」を探してみて下さい(˶˙º̬˙˶)*॰

とはいえ、

「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコ世界遺産に登録され、

西の弥生

に対する

東の縄文

の反乱が、少しずつ目立つようになってきました。

( ・ิϖ・ิ)っ

朝鮮半島の「優れた文化」の影響を受けた「北九州」の弥生人が、

近畿以東の劣った縄文人を蹴散らして、

ヤマト王権を築いた

(´-ω-`)
このような荒唐無稽な戦後生まれた自虐史観は、もはや近畿以東で本気で信じている研究者はいません‼

立場上、大きな声で言えない🙊先生方は大勢いますが‼

(´-ω-`)
そもそも、古墳時代の開始時期に至っても、

陳壽『三國志魏書三十鳥丸鮮卑東夷伝』
に書かれているように、

韓には

倭人のような優れた文化は

ありません‼

小国が分立した韓には、西の大帝国であるクシャーナ朝(親魏大月氏王)と同格の…三十国を束ね「親魏倭王」に封じられた卑弥呼や、その女王国連合のような政治的まとまりはありませんでした🤔

ずっと後の7世紀に至っても、隋書東夷伝に

「新羅、百済は皆、倭を以て大国にして…これを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」

とあるように、

『隋書』の編纂者である顔師古、孔頴達らは立場上、百済、新羅の倭への「朝貢」とは書けないですから、暗に匂わせるに留めているわけですが…

百済や新羅は大国である倭に朝貢している立場である‼

という歴史的事実は

最早、ハッキリさせた方がよいでしょう。

( ・ิϖ・ิ)っ

東日本の縄文は、

西日本の弥生に

劣ってはいなかった‼

ことを理解しないと、いつまでたっても日本の古代史を理解出来ません。

魏の時代、中国に通訳をつけて使者を送っていた倭人の国は三十国。

然し、中国は三十国全てを王と認めたわけではありません。

邪馬薹(ヤマト)もしくは邪馬壹(ヤマト)に都する連合国王を王と認めたのです。

前漢末(王莽時代)の海度東夷王
後漢の倭奴国王
魏の親魏倭王

全て奈良に都を置いた政権が大国の主と認められて「王」の称号を得ています。

韓半島や北九州のような乱立した小国ではなく、

既に奈良のヤマト王権は東海関東の縄文勢力を味方につけた大国になっていました。

王莽は、
高句麗王を下句麗候に格下げしましたが、東夷のうち唯一海を渡って来る倭人を東夷王として認めているわけですから、それなりの裏付けがあったのでしょう。

王莽や司馬懿が権力を手中にするために、倭を過大評価したとする説がありますが、

帝位簒奪を慎重に進めていかなければならない時期にテキトーなことを言って立場を危うくするようなリスクは負わないでしょう🧐

(。ì _ í。)

銅鐸には縄文時代の紋様が刻まれています。

紀元前後、奈良のヤマト王権は東の縄文勢力を取り込むことに腐心しています。

縄文勢力との融合が奈良のヤマト王権を強固にしていった事実は古事記、日本書紀にもそれとなく記されていますが、

近年の(中央の学者はまだ余り大きな声では言えない)考古学の成果は、

中国の史書や記紀を裏付ける方向を示しています。

( ・ิϖ・ิ)っ

史家というのは、
恒に

「言いたいけど言えない」
「然し言いたい王様は裸だ耳はロバだと叫びたい」

という葛藤の中で

「暗に仄めかす」
というヒントを散りばめて史書を編んでいます。

水面下で「暗に仄めかす」縄文考古学の進歩は、今まさに歴史のヴェールを剥がしにかかっているのです。

( ・ิϖ・ิ)っ

一方で、
「縄文時代はスゴかった」というのは何となくわかってきたけれど、

一体どこまでスゴいのか❓

は、未だに見当がつきません。

中国の文化の基礎は殷(3600年前~)に始まる(夏ではない)が、中国研究者の見解ですが、

日本文化の源流は、

一体どこまで遡るのでしょうか❓

たかだか2600年(奈良の弥生時代開始、神武東遷以降)では無いことは明らかです。






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戦前まで日本の歴史は、奈良へ東征して橿原で神武天皇が即位した辛酉年一月一日(BC660)に始まり、

それ以前の縄文時代は

「神代」とされてきました。

そして縄文時代はせいぜい五千年ほど前に

大陸から朝鮮半島を経て初めて人が渡って来て、日本での人類の活動が始まったのだろう…そう考えられていました。

当時は、中国の土器も五千年を遡ることはなく、最初期からある程度完成された土器が見られることから、

土器の文化も西方から伝わって来たのだろう…そんな風に考えられていたのです。

(˶˙º̬˙˶)*॰

戦後間もない昭和21(1946)年、それまでの定説を覆す世紀の大発見がありました。

群馬県みどり市(現在)にある岩宿で、在野の考古学者相沢忠洋氏によって25000年以上前とされる(当時)旧石器時代の石器が発見されたのです。

岩宿遺跡からは刃部を磨いた局部磨製石斧が発見され、その後の研究から38000年前に遡る世界最古級(近年、オーストラリアで6万年前の磨製石斧が発見されている)の磨製石器であることが明らかになってきました。

縄文時代も早期、草創期と遡り、現在は縄文時代の開始を16500年前と考えるようになっています。

38000年前の日本列島人は、
最大で7~80人の集落(季節的な野営地とする説が一般的)を形成(環状ブロック遺跡)し、

鋭利な黒曜石の石器でナウマンゾウを解体、

落とし穴(世界最古の罠猟)で獲物を捕え、

太平洋の黒潮を超えて神津島へ航海するなど広範な交易ネットワークを構築していました。

( ・ิϖ・ิ)っ
狩猟民の交易ネットワークについては、10万年のアフリカで既に存在していたとする説が近年提唱されており、

当時の狩猟民が、かつて考えられていたような原始的な生活を送っていたわけではないと考える研究者が世界的に増えています。

ヨーロッパを基準にした後期旧石器時代(クロマニヨン人に代表される現代人的行動の開始)と、同時代の日本列島の文化を同列に扱うことには賛否があり、38000年前から始まる日本列島の後期旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぼう、という提唱がされるようになりました。

石刃【せきじん】技法が中東(レバント)からユーラシアステップを経て36500年以上前の日本列島に伝わってきたのは、ほぼ間違いないのですが、

局部磨製石斧は、オーストラリアを含む環太平洋地域、アジアに古くから見られる在来の技法が用いられており、

ナイフ形石器のように日本列島で独自に開発された技術もありました。

(˶˙º̬˙˶)*॰

土器は日本では16500年前、
シベリア沿海州で15000年前、
中国では(18000年前とされる土器もあるが空白期間が長い)9000年前、
中東レバントでは7300年前、
エジプトで6000年前…

土器文化の発祥は日本列島を含む北東アジアであり、約一万年かけてゆっくりと西域へ伝わっていったと考えてよいでしょう。

(˶˙º̬˙˶)*॰

土器を使用する縄文時代は、一般に新石器時代と考えられています。

16500年前の新石器時代開始も、12000年前に始まるヨーロッパの新石器時代よりずっと遡り、

日本列島は世界で最も早く新石器時代に突入したことになります。

( ・ิϖ・ิ)っ
縄文時代というと、装飾過多で芸術性の極めて高い中期(5500~4500年前)に注目が集まりますが、

同時期のメソポタミアや、
4700年前にピラミッド建設が始まるエジプトに比べ、

未開の時代である、というイメージが残念ながら未だに日本人の脳内に焼き付けられています。

38000年前から始まる岩宿時代、
16500年前に始まる縄文時代草創期、

日本列島には世界に対し、

確かなアドヴァンテージがありました。

この事実を知らなければ、

日本の歴史は理解出来ません。

神武天皇東征や、
卑弥呼の時代、
倭の五王、
そして壬申革命に至るまで…

岩宿時代、縄文時代草創期の日本列島文化の先進性を知れば、

その解釈は全く異なるものになるのです。

いつまでも旧態依然とした捉え方で自虐的に日本の古代史を考えていてはいけません。

歴史の細部には不明な点が多いのですが、

大まかな歴史の流れだけは掴んでいなければ、歴史の全体像は見えてこないのです。

(๑・ .̫ ・๑)

日曜日、つくばでお待ちしていますฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)♡









約7万年前に始まった最終氷期(ヴュルム氷期)は、21000年前に最寒冷期を迎え、ヨーロッパや北アメリカ東岸(大西洋に面した地域)は巨大な氷床に覆われ、海水面は現在より120メートル低下していました。

一方、北極海と繋がった大西洋の海水温が低下していたのに対し、ベーリング海峡が陸化し北極海と遮断された太平洋は比較的温暖でした。

シベリアから中国北部は乾燥した草原が広ったツンドラとなり、中国南部は乾燥し森林は失われていました。

熱帯雨林も現代より大幅に縮小し、砂漠が広がっていました。

海水面の低下で対馬海峡が縮小し、日本海には暖流が流れず黄河の冷水が流れ込み海水温が下がったため、

現在のような日本海側の降雪は無く、

日本列島は気温は低いものの太平洋岸には暖流が流れ、石器時代の人々にとって世界で最も暮らしやすい場所でした。

日本には更新世(最終氷期が終わる前、1万年前まで)の遺跡が

後期旧石器時代(BC36000~14500)14500箇所
縄文時代草創期(BC14500~10000)2500箇所

合計17000箇所も存在します。

当時の世界人口の大半が日本列島に集中していたのではないか❓という説があるくらいです。




後期旧石器時代の日本列島には文明の前史があります。

石器材料に恵まれた火山列島で、人々は来たるべき文明の時代へ向けて着々と準備を進めていました。



少しずつ気候が温暖化していた16500年前頃(BC14500)、日本列島で土器の製作が始まりました。

中国で18000年前の土器が出土したと言われていますが、その後遺物が行方不明になったとも云われ、確定的ではありません。



日本列島では14000年前(BC12000)頃から非常に多くの土器が作られるようになり、

世界で初めて土器文化が広まったのは日本列島であることに疑う余地はありません。

日本列島には38000年前から70~80人が集団で暮らす世界最古の集落(環状ブロック遺跡群)が北関東や長野県を中心に出現しています。

22000年前には大阪はさみ山遺跡で世界最古のしっかりとした基礎が築かれた永続的な住宅である竪穴住居が作られています。

こうした前段階を経て、時間をかけて少しずつ少しずつステップを踏みながら文明の萌芽が育まれていきました。

四大文明は更新世の遺物が乏しい地域に垂直に文明が立ち上がっています。

その地には前段階が無いのです。

世界最古のメソポタミア文明は…

どこからかやって来た

日本語と同じ膠着語を話す人々(シュメル)によって、

垂直に立ち上がっていきました。

( ・ิϖ・ิ)っ

さぁ、黒い髪の人々…シュメルは一体どこで文明の前史を過ごしていたのでしょうか٩(๑òωó๑)۶(笑)

縄文時代草創期には、

土器の製作が始まっただけではなく、

定住集落が営まれ、

局部磨製石斧が復活します。

そして石皿と磨石が見られるようになります。

磨製石斧は激しい打撃を伴う作業に使われており、木を伐り倒す用途に使用されたと考えられています。





石皿と磨石は、クルミ、トチ、クリ、カヤなどのナッツ類をすり潰し粉食にしていたと想定されます。

温暖化が進むと、南から落葉樹林が広がっていき、

木の実が豊富なこの森は、

落葉を食べる虫が集まり、その虫を食べるために小動物が集まり、

縄文人は狩猟採取のみで豊かな食生活を送れるようになったのです。

土器を用いた煮炊きの開始は、さらに暮らしを豊かにしていきました。



竪穴住居、
土器による煮炊き、
石皿を用いてナッツ類を挽く、
小動物の狩猟、

磨製石斧による材木利用の本格化は

造船、建築技術の確立を意味しています。

この他にも縄文人の暮らしを楽に豊かにしたのは、秋になると河に大量に遡上してくるシャケ(•ө•)♡

現在では川の魚も減ってしまいましたが、

当時は投網を一投すればまさしく一網打尽で大量の魚が獲られたでしょう。

現代の日本では針葉樹の植林によって落葉樹林が極度に縮小しているため、豊かな狩猟採取生活は望めませんが、

当時の日本列島では、少ない労働時間で充分な食料が獲られたのです。

その上、山菜キノコも取り放題٩(๑´3`๑)۶

貝も食べ放題😋🍴✨

現代のカップラーメン&コンビニ弁当生活や…

明らかに身体に良くない飽食グルメと異なり、

ヘルシー且つ豊かな食生活、長い余暇の時間を伴った日本の黄金時代は、12000年続いていたのです。

(˶˙º̬˙˶)*॰

一時、照葉樹林文化といった言葉がもてはやされたバカな時代がありました…

日本は大雑把に

東日本は落葉樹林
西日本は照葉樹林

です。

縄文時代の本州の人口のうち95%は東日本に住んでいました。

照葉樹林は木の実に乏しく、また落葉も無いため小動物も集まりません。

そして西日本の河川にはシャケは遡上しないのです( •́ㅿ•̀。 )

重労働の農業やるしか食えません(๑´• ₃ •̀๑)

後の縄文晩期になると、

西日本ではあくせく働いて農耕生活を始めますが、

東日本は余裕で縄文を持続出来たのです。

(˶˙º̬˙˶)*॰
16500年前

氷河に閉ざされた北アメリカやヨーロッパと異なり、

氷期の影響が少なかったアジア極東地域で、

更新世の終末を待たずに

世界で一番最初に
新石器時代が始まりました。

落葉樹林文化が文明の前史なのです。

そして、落葉樹林で文明の萌芽を築いた人々が、

不毛の地である照葉樹林を開拓して農耕文化の基礎を作り、のちに文明(と呼ばれるもの)になっていくのです。

日本海に暖流が流れ込むようになると、極寒の生物乏しい内海は一転して豊かな漁場となります。

縄文人は荒波の外洋である太平洋での航海を経験していましたから、穏やかな内海の日本海は庭のようなものでした。

彼らは日本海へ船を漕ぎ出して行きます。

その日本海の対岸、中国東北部、沿海州もまた落葉樹林帯でした。

環日本海(朝鮮半島はこの時期に無人化となるので、照葉樹林帯であったと思われる)、東日本と沿海州の落葉樹林帯に、

世界に先駆けて

狩猟採取と、海を跨いだ広域な交易ネットワークの

東夷社会

が誕生したのです。



日本語と同じ膠着語を話す
アルタイ語族

つまり、
最後まで稲作を拒み続けた人達

スキタイ、匈奴(フン)、鮮卑、柔然(アヴァール)、突厥(トルコ)、契丹(キャセイ)、女真(満州)、蒙古(タタール)

中国を支配し、
ヨーロッパを席巻した民族、

トゥーラーンは、

全てそこから興りました。

後にアーリア人(印欧語族)を産み出したのもトゥーラーンの地です。

沿海州では15000年前から土器が作られています。

回転縄文も見つかっています。

氷期を比較的温暖な日本列島で過ごし、技術を蓄積していた彼らは、海を渡って行きました。

氷期の影響が残るヨーロッパで洞窟に暮らし壁画を描いては悶々としていた時代、

環日本海北部の落葉樹林帯では、

いち早く人類が躍動の時を迎えていたのです‼