天龍の屋臺 2014年版 ③春野気多編⑴宮川地区 | 縄文家族|天竜楽市

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天龍の屋臺 2014年版 ③春野気多編⑴宮川地区

 

 江戸時代には全国的な信仰を集めた遠州秋葉山の西麓に位置する宮川地区。
 旧気多村は明治22年(1889)に気田村、宮川村、豊岡村、小俣京丸村、石切村が合併して発足。昭和32年(1957)に犬居町、気多村、熊切村が合併して春野町が発足、平成17年に春野町は浜松市に編入され平成19年に浜松市天竜区となった。
 春野町の地名は秋葉山、光明山と並ぶ古来の山岳信仰の聖地である遠州三山の一つ春埜山に由来する。
 
 旧宮川村には高瀬、久保田、里原、河内、平木の集落があり、それぞれに村の鎮守を祀っており、単独で祭典を行なっているが、高瀬、久保田、里原の三地区は合同での屋台曳き廻し、平木は気田地区の屋台と合流しての曳き廻しも行なわれている。
 江戸時代には熊切川と気田川の合流点付近に夜川十五七百という村が存在していたという。

 屋台は戦後に建造されたものだが、高瀬では戦前に気田金勢社の先代屋台を譲り受け曳き廻しをしていたという。

 久保田から秋葉山頂へ向う古道があり、そこから信州、三河、浜松へ向う街道が分かれていた。夜川十五七百村は気田川の増水で流亡したというが、急峻な山岳地形で平野部の少ない天竜区にあって宮川地区は気田川流域の平野部沿いに集落が点在し山あいの開けた土地に田園風景が広がる一般的な山里の風景が見られる。
 夏に祭りが行なわれることの多い天竜区だが、春野では稲作を中心とした農業も営まれてきたためか、収穫時期の10月に祭典が行なわれている。


天龍の屋臺2014年版DVD、ブルーレイより

 

夜川十五七百村の物語

 

 気田川を挟み、河内の対岸付近には、かつて夜川十五七百村(よかわじゅうごななやくそん)という村があったという。

明治初期の地図を見ると、気田金川辺りにも十五七百の名がある。

 

 氣田の十五七百村(じゅうごななひゃくそん)には、毛利元就に滅ぼされた出雲尼子氏の家来、山中鹿之助が訪れ、悪さをして村人に火あぶりの刑にさらされていた十五歳の少年を銭七百文で買い受け、この少年がのち猪を素手で捕らえ大谷猪之助の名を与えられ尼子十勇士となったという逸話がある。

 

 夜川の十五七百村にも、これと似た話があり、尼子十勇士の一人大谷古猪之助(大谷猪之助と同一人物と思われる)が十五歳の少年を七百文で買ったから、その名が付いたという。

 

 十五七百はまた、「キイナゴ」と読んだ、ともいう。

 明治九年(1876)に河内村、高瀬村、久保田村、里原村、平木村、夜川十五七百村が合併して宮川村となった。

 

 その後、夜川十五七百の集落は水害で消滅してしまったという。

 

宮川には秋葉山の天狗に因み、日本一の大天狗面がある。

 

 高瀬の高栄社は二層高欄型の二輪屋台。

 春野にも森町のような御所車型の二輪屋台もあるが、御所車型は遠州中東部独自の形式であり、全国的には二層高欄型の山車屋台は多く見られる。

 「関の山」の語源となった三重県関町の山車、千葉県佐原の幣台など二層高欄の屋台は人形を載せて山車とする場合は一般的な形式。

二層高欄屋台に人形を載せた佐原の山車と上層を舞台にした小見川の屋台。

高栄社の屋台は昭和中期の建造だが、春野の明治から昭和前期の屋台には二層高欄型も多い。こうした江戸時代の関東や東海西部の影響を受けた形式の屋台が春野にあるのは、秋葉詣でや天竜川水運を通じて東西から情報が集まり交流があった証かもしれない。

 

 

天神社の屋台も唐破風二輪という春野特有の形式

 

秋葉山に出入りしていた優秀な宮大工と良質の気田欅が山間部に独自の屋台行事が発展する礎となっている。

 

 

 

 河内八王子神社祭典では、古くから奉納相撲があり、神社境内に設けられた「八王子場所」で取組が行われている。

 

 

 

 

平木の八幡連は気田地区の屋台に合流して曳き廻しを行なう。過疎の山間地とは思えないほど豪華な屋台が集結。

 

宮川地区の屋台は

二層高欄二輪山車屋台 高瀬高栄社
一層唐破風四輪屋台 久保田久栄社
一層唐破風二輪屋台 里原天神社
一層照り破風四輪屋台 河内八王社
御所車型二輪山車屋台 平木八幡連

とバラエティに富んでいるのが特徴的