相も変わらずこのオフィスは電話が鳴り響いている。


当初は電話の呼び出し音を夢で見ることもあったが、今となってしまっては仕事をこなす上でのBGMでしかない。慣れとは怖いものだ。


今日はさほど忙しくない。僕のところにも負荷がかかる案件は回ってこない。
もちろん苦情ばかりではあるが、所詮パターンだ。まとまった規模のものはもちろん会議にかけるが、会議にかける以前のものばかりが普通だ。


彼女もこのごろは処理数も伸びて力をつけてきている。
何か困ったことがあれば必ずといっていいほど僕に意見を求めてきた。


「木崎さん、この案件なんですけど、どういった言い回しがいいですか?」


「あ、木崎さん。
 先ほどの案件ですが、木崎さんの言うとおりにやったら無事納得して頂けました。」


「木崎さん?今、お時間よろしいですか?」


……………。








このとき、僕は現場で既に最終ポイントの対応を任されるところに居たわけで。基本的に相当重たいのがこない限りは事務仕事中心だ。


この部署にいて、僕は相当殺伐とした雰囲気を持っていたらしい。哲ですら仕事中の僕には話しかけたくないと飲んだときに打ち明けられたぐらいだ。こんな僕に彼女はめげずに相談に来る。


ときに煩わしさは確かに感じていた。自分の仕事が止まるのを僕はひどく嫌だったからだ。

だが、彼女に接していく中で次第に、どこと無く緩んできている自分を感じていた。

いつの間にか、彼女の質問にすら親身に答えている自分がいた。この雰囲気が好きだった。




なんともハッキリした口調の中に、どこと無く甘えたような調子を持つ彼女の声が、僕は好きだった。それでいてさばさばしていて、言うことは理路整然としている。口を開けば、熱い心の持ち主だった。仕事においては彼女は僕が最も信頼を置く人物であった。




ただ、彼女は誰よりも女の子であった。







僕はそんな彼女を知らなかった。


そして誰より知りたかった。

涙は落ちる。


ただ、とめどなく落ちていく。僕はどうすることもできずに息を呑んだだけだった。


煩わしい。まだ、案件はたくさん残っている。あいつも処理しなければ。そして、後は哲にも引き継ぎがあったな。
およそ、この状況には似つかわしくないことが僕の頭の中をめぐっていた。



「悔しいです…。」


泣き声だけが響く静寂の中、彼女が不意に漏らした言葉。


僕は耳を疑う。僕が今までこの状況下で聞いた台詞どんなものとも違った。

「なんで私がこんな目に…」とか「あいつ本当になんなの!」とかの陳腐な言葉がどうせ出るであるだろうと僕は思っていた。


「何もできなくて、あそこまで発展させてしまって、木崎さんにまで迷惑をかけて。
 本当にすみません。
 どういう言葉で伝えればいいのか、まだよくわかってないんです。」


「そう。でもね、最終的に僕がやったけどさ、あそこまでよくやったと思うけどね。
 野村さんが言ってることは間違いじゃない。
 どんな風に伝わっているかはわからないし、代わって初めて落ち着くこともある。
 結局場数を踏むしかないんだ。ただ、自信は持って。」


我ながらなんて一般論化した励まし方だと思う。くだらない。


それでも彼女は何かしら満足したようで、泣き顔にぎこちない笑顔を浮かべて一言礼を述べたのであった。僕はいたたまれない気持ちになるが、平然と煙草の煙を吐き出す。


「とりあえず、言い回しに迷ったら僕に聞きにおいで。
 何十人と相手にしてきたんだ。きっと役に立てると思う。
 ま、こんな仕事場だ。こんなことは日常茶飯事。気持ちの切り替えが大事だよ。」


「はい、ありがとうございます。」


少しうつむき加減の彼女を視界の端に、僕は煙草を消して出て行く。


「すっきりしたら戻っておいで。」


落ち着き始めた彼女を残し、僕はフロアへと歩き出す。なぜだか顔が熱い。

夕暮れをバックにした彼女の物悲しい雰囲気が、僕をざわめかせた。



フロアに戻る数分で顔を引き締める。



一体何を考えている。
まだ、やることはいっぱいあるんだぞ。
帰りたきゃ仕事しろ。



僕は自分自身を戒める。ありふれた言葉でも意外と効果はあるものだ。



煙草を消す前に言った言葉が、僕を変えてしまったことにはこのときは気付くことすらできなかったわけだ。

白を基調とした整然としたオフィスの中、今日も連日のように電話が鳴り響いている。

けたたましくなり続ける電話の呼び出し音、その対応に追われるオペレーター達。


「誠、今いいか?」


聞きなれた声だったため、パソコンのモニターから目を離さずに処理を進めながら返事をする。


「ちょっと待ってくれ。

 どうした?」


「悪いが、この案件に目を通しといてくれ。

 おそらくお前んところで対応してもらうことになる。」


「了解。ま、このクラスが相手ならなんとかなるだろう。」


哲から資料を奪いとり、即座に目を通す。所詮、こういった場所の案件なんてものは似たり寄ったりになりがちだ。過去にやったパターンから解決法を割り出していく。そして、僕はこの案件を解決できる力を持った部下に依頼をかけるのである。


「そうだな。お前まで上がることはないだろうな。

 よろしく頼む。」


哲は忙しそうに自分の部署へと帰っていく。それはそうだ。今は繁忙期なのだから。





僕はまだこの部署に勤めて2年ほどになるが、すでに一番立場は上になってしまった。誰もここで働きたがらない。なぜならここはクレーム専門部隊だからだ。僕まで上がってくるクレームも頻繁にあるし、そういう奴に限ってテクニックやタイミングなどが通用しない根性でどうにかするしかないとか、精神的負担もすごいものだ。


ここのトップになってから半年が過ぎた。その中で精神を病んで辞めていくやつを何人か見てきた。


誰だって顔もわからない相手から罵声を浴びせられることに耐えられないだろう。仕事であっても。そんな部署に彼女は配属されてきたのだ。




「野村さん、これお願いします。」


「わかりました。

 あ、木崎さん。これ終わったら、お昼ご一緒しませんか?」


「おう、了解。そうだな、この案件のポイントは…」




彼女はこの部署に向いていないと僕は思っていた。女性を捨てているような女性しかこの場では耐えられない。そういうものだと思っていた。彼女はこの部署で誰よりも女の子であった。もちろん最初はボロボロになっていた。彼女も辞めていく人間だと僕は思っていた。


そんな中、僕は今の役職に就く前に彼女の教育担当となった。名ばかりの教育担当。僕はその当時、完全に現場で前線出ていた。彼女に対してできたことはほとんどないが、彼女にとってはそうでもなかったらしい。







僕は今でも当時の彼女を思い出す。


喫煙所で泣き腫らした目をぬぐうその手を、

頼りなさ気に煙を漂わせる少し長めの煙草。


ちょっと責任を感じて、気を遣う僕。





あの時は彼女にここまで惚れるなんて思ってもいなかった。