2006年に神奈川県から転居し別府市で私塾を開業した。

 

初期の頃の塾生で成績はイマイチだがとても素直で良い子供がいた。

僕は高校生はもちろん、相手が小学生でも中学生でも大学の話しをする。

 

そのMちゃん、自分の父親と大学の話しはしたことがなく、初めて父親の出身大学を知ったそうだ。

 

某大手企業を脱サラし埼玉県から転居し家業のホテルを引き継いだそうだ。

地獄温泉にちなんだプリンも開発し順風満帆に見えた。

 

ほとんど散歩が趣味と化しているが歩くコースは大体決まっている。

お気に入りの小さな旅館の前を通るときはたまにはこんな大正ロマン漂う場所で朝食を食べてみたいものだと考えたり、

新しいカフェが出来たなとか顔見知りになった子犬を散歩させている老女と会うと少し立ち話しもする。

小一時間、家から持参したコーヒーがほぼ無くなったころ散歩終了。

 

Mちゃんの父親が経営するホテルはほぼ毎日目にするがその前を歩くことはほとんどなかった。

先日、玄関に張り紙があり、いつもは止まっているバスや自家用車が一台もない。

我が家の近所のホテルもコロナの影響で一時期は宿泊者0だった。

どうも様子がおかしいので小僧さんにニュースを検索させると自己破産だと言う。

別府市の税収の多くの部分をホテル、旅館など観光業が占めている。

もう随分前からヨットハーバー界隈のホテルは銀行管理だとは聞いていてが、まさかこのようなことになるとは考えていなかった。

 

Mちゃんも、彼のお姉さんも既に成人しているのでなんとかこの危機を乗り越えて欲しいと思う。

 

自らのことを『チャレンジャー』と表現し見事逆転合格を果たしたMちゃん、なんとか生き伸びて欲しい。

コロナの時代は生きてさえいれば勝ち組みだと思う。

 

余談だが東大の学生さんをアルバイトに雇っている同業者の話しによると、東大ではネット授業が続きほとんど同級生と会うことが無いと言う。大学と言う場所は異質な人間同士が出会い切磋琢磨することに意味があったのだが今はそれが希薄だ。ただ昔の学生よりも勉強はしていると言う。大学は本来、学問する場である。生きて学問が出来る幸せを学生諸君は嚙みしめ、このコロナの時代と言う難局に立ち向かって欲しい。

 

 

 

 

 

ホンコンには行ったことがない。

そう言えば子供の頃、ホンコン焼きそばは好きった。今でもスーパーで売っているので、つい買いそうになるが、まだ買ったことはない。

 

 

駿台の英語科を作り上げた伊藤和夫は海外旅行に行ったことが無かったが、優秀なお弟子さんと言うか駿台の同僚に誘われ、初めての海外旅行が香港だったそうだ。誘ったのは確か山口紹師と大島師。間違いなく楽しい旅行だったことだろう。もしかすると数学科の旅好きだった講師も一緒だったのかも知れない。

 

 

スカタコ高校の教員だった頃の同僚が中国に返還前の香港に旅行していた。今思えば、その時期のホンコンを観ておくべきだった。

 

 

今日から香港の法律が変わるそうだ。日本政府は遺憾の意を表明し合衆国は制裁措置

を取った。ただ実際は中国政府の決定には誰も逆らえない訳で、そうすると残念ながら香港は大きく変わることになる。誰かがギャクで中国を香港化すれば良いじゃないかと言っていたが、そうなれば良いことだが、それは無理。

 

英国が特例で香港からの移民受け入れを表明している。それも良いオプションだが気候が違いすぎる。

 

今朝、ふと、考えた。

 

台湾の一領域に香港を丸ごと移転すれば良いんじゃないだろうか?

 

と、こんな無意味なことを散歩が終わり、湯船に浸かりながら考えていた。

 

NHKFMからはラフマニノフが流れており、DJと言うのかナビゲーターと言うのか分らないが番組の進行役の人が、『ラフマニノフは政治不安だったロシアからアメリカに移り.........』と解説したことから、香港について考えてみた。

 

今は好きなラフマニノフをyoutubeで聴きながらこの文章を書いている。

検索をかけたら、たまたまこの映像だった。

 

 

 

 

 

 

我が家の掛かり付けの歯科医は京大卒である。

少し受験のことを知っている人なら、「それ、流行りの学歴詐称じゃね」と言うかもしれない。

京大には歯学部は無いからだ。

 

旧帝大で歯学部が無いのは東大、名大、京大。

 

過日、コロナで学校が休校中の平日の夕方、別府公園を散歩した。

 

何時もなら職業柄、こんな時間に散歩など出来ない。

小中高が休校中は朝8時30分からSkypeで講義をしていた。

だから何時もは仕事が始まる夕方には、既に授業はほぼ終了していることが多かった訳だ。

散歩の時には本や音楽を持ってゆくことが多いし、歯医者やその他、少しでも待つ必要のある時には本を持ってゆく。

 

そう言えば、息子の小学校受験の時も本を持って行って時間を潰した。息子は怪獣の本を持って行き、これから

受検者は試験会場に移動すると言う直前まで待機場所の近隣にたまたま座っていた4,5人で一緒に本を見ていた。

引率の教員と共に検査場に移動する段になって、さすがに検査に不必要な本を持っているのはマズいかもと思い、取り上げた。

 

歯医者に通う時も本は持ってゆくのだが、その歯医者は割と面白そうな本があり、別に本を持ってゆかなくてもイイと思うようになり、待合室で、そこにある本を読むようになった。ある時、京大の学祭かなにかの冊子があり、それを見ていたら、診察室でその話になった。もちろん歯の治療だから多くは語れない。その時は大学は京大だったんですよと聞いただけで、待合室には九大歯学部卒と書いてあるので、「じゃあ、再受験したんですね」とは聞かなかった、と言うか治療中には会話は出来ない。

 

夕暮れ時、息子と散歩に出た。

行き場所は別府公園。東門の辺りでロン毛の歯科医とすれ違った。どちらからともなく、会話が始まった。実は京大理学部数学科を出ているが河合塾でアルバイトしていたので京都には住まずに大阪から通ったことや工業高校出身であることや分子生物学の勉強が出来ると思い九大歯学部に進み歯科医になったのは40歳くらいで、今でも週に2回は京都、1回は九大に通っているそうだ。

 

京大数学科と言えば僕にとっては森重文だが―森さんがフィールズ賞を受賞したとき師匠の秋山仁師が日経新聞に割と長い解説文を書いていた―その他の数学者たちの話しをし、結局、京大で数学を学問するということは哲学であると言う、取り合えずの結論に至った。7時過ぎても外は明るいが、この時は真っ暗になり、多分、1時間以上立ち話をしていたんだと思う。Mさんと別れて歩き始めると、足が痺れていた、こんなことも珍しい。

 

実はそれ以後、小僧さんの第一志望校は京大理学部数学科になった。