坂田健史vs川端賢樹 「”伝説のトレーナー”スタンレー・イトウ」 日本フライ級王座決定戦 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

2001年、チャンピオン・カーニバル。セレス小林(国際)選手の世界王座挑戦に伴う王座返上による日本フライ級王座決定戦が、2位川端賢樹 (姫路木下)選手と、3位坂田健史(協栄)選手の間で争われる事になった。1999年12月に全日本フライ級新人王を獲得した坂田選手は、大竹重幸トレーナー&マネジャーの考えで2000年はキャリアを積む年として、主に外国人選手を相手に年間6試合を消化したが、タイトル挑戦はもう少し先に見据えられていた。しかし、上位ランカーの辞退により坂田選手に王座決定戦出場の話が舞い込む。大竹氏は「タイトル戦のチャンスなんて、そんなにあるものじゃないから」と、この話を受けた。

 

 

坂田選手は1998年春に広島県から上京。大竹氏は1年間、しっかり基礎を叩きこんでからのデビューを考えていたが、金平正紀会長の「大竹さん、後援会が出来ちゃいましたから新人王頼みますよ」の一言で、1998年12月にデビューし、以来、14戦全勝(6KO)。対する川端選手は、17勝(9KO)4敗2分。2000年2月にはタイでメッガン・トヨタタイランド(タイ)の持つWBC世界同級王座に挑戦し、12回判定負けを喫していた。

 

先代金平会長は坂田選手にとてつもないメンバーが名前を連ねる後援会を残し、1999年3月に逝去されていたが、坂田選手の日本タイトル戦出場の話を聞きつけた広島出身の大変な実力者が、新たな援軍となって坂田&大竹コンビの前に現れた。

 

「なんといっても相手は世界タイトルやっとるわけでしょう。まともに行ったんじゃ坂田も大変。だけど、リングにスタンレーが立っておったら、木村君も木下君も少しは驚くでしょう。これくらいやらないといけません」

 

 

王座決定戦は新日本木村ジム・木村七郎会長のプロモートで、TV放映はフジテレビとなっていた。相手の土俵で、世界戦も経験している川端選手と戦う坂田選手の為に、ハワイから伝説のトレーナー、スタンレー・イトウ氏を招聘する事が提案され、「大丈夫。費用は全部私が持ちます。なぁに、心配はいりません。私はひとの米びつには手を出しませんから」という事で、イトウ先生が坂田選手のセコンドに就くことが決まった。

 

 

4月9日、後楽園ホール。坂田選手のコーナーにはスタンレー・イトウ氏の姿があった。木村会長、姫路木下ジム・木下末吉会長が驚かれたかどうかはわからないが、坂田選手には、自分の為にイトウ先生が来てくれたということは、伝わっていただろう。試合は接近戦での激しい打撃戦が繰り広げられ、「自信はあったけど、向こうのほうが根性あった」(川端選手)。「一生懸命やっていたら負けていなかっただけ」(坂田選手)という内容で、坂田選手が競り勝った。

 

 

後、坂田選手はWBA世界フライ級王座を獲得し、2008年大晦日に故郷広島でデンカオセーン・カオウィチット(タイ)の挑戦を受けたが、思わぬ2回KO負けで王座を失った。この試合、セコンドを務める協栄ジムのトレーナー陣は大晦日早朝に広島まで移動。しかも、指定席は1人分しか取れておらず、自由席で行ってくれとの指示。何とかやりくりして立ちんぼの移動は無くなったが、世界戦でこれはない。

 

この話をエディ・タウンゼント賞も受賞された福田洋二先生にすると、「そういうのが選手に伝わる!」

と、ピシャリ返された。「ボクシングは心半分」。無言、無意識のうちに選手に伝える事、伝わる事が勝敗の分かれ目となることは、確かにありますね。

 

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