ボクシングを素人から習い始めて1年で、オリンピックで金メダル。そんな離れ業を演じて見せたのが、元世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマン(米)と、ディック・サドラーのコンビ。かつて渡嘉敷勝男(協栄)選手が、福田洋二トレーナー(現・福田ジム 会長)とのコンビで、素人から3年で世界チャンピオンを獲得した一部始終を見てきたが、フォアマンの金メダルには驚きだ。
フォアマンとサドラー。
「トカちゃんと福田先生は、小さい同士で合ったんじゃないの」(^^ゞ(怒らないでくださいね)
1961年。プロレスで成功した力道山は、重量級プロボクサーを育てようと、リキジムを創設。ハワイからエディ・タウンゼント氏を招くなど、精力的活動を始めた。63年4月、サドラーは後のカリフォルニア州認定世界ウェルター級王者チャーリー・シャイプス(米)を引きつれ来日。日本の一線級をことごとくKOで葬った。
サドラーに目をつけた力道山は、この年リキジムのトレーナーとしてサドラーを迎え入れる。家族同伴で来日したサドラーは、後の東洋Sウェルター級王者溝口宗男選手ら、重量級選手の指導にあたった。しかし、63年12月に力道山が急死。日本でのトレーナー生活は1年あまりで終わってしまった。
オリンピックで金メダルを取りたいと思ったフォアマンが、カリフォルニア州オークランドのジムにいる名トレーナー、サドラーの下を訪れたのは68年のはじめとされている。職業学校でボクシングを始めたばかりのフォアマンは、真剣だった。
「腕力、体力とも相当だったが、当時の彼は両手をブンブン振り回すだけのシロモノさ。技術なんてお世辞にもなかった」
10月に開催される五輪出場を目指し、短期間の特訓が始まった。サドラーの指導法は、体でやって見せ、「納得いったならば、信じてついて来い」というスタイル。フォアマンは上手く暗示にかけられた。並み居る強豪を蹴散らし、見事に米国代表の座を掴む。
そしてオリンピックでは、キャリア不足を心配されたフォアマンが、米国ボクシング界に唯一の金メダルをもたらすのである。通算アマ戦績22勝4敗。
フォアマンは才能もあったが、もの凄く素直だったのだろう。そうでなければ僅か1年の練習で金メダルはありえない。プロの世界王者を夢見る金メダリストには、巨額の契約金が積まれ、契約希望が殺到する。
しかし、フォアマンは迷うことなくサドラー氏とのコンビを選択した。過去にヘビー級ソニー・リストン、Lヘビー級アーチー・ムーア、Sウェルター級フレディ・リトルらを手がけた、トレーナーとしての腕を肌で感じ取っていたのだろう。
「彼(フォアマン)は頭がいい」
69年6月、プロデビューを果たしたフォアマンは、73年1月ジャマイカで王者ジョー・フレージャー(米)を圧倒し、世界ヘビー級王座を強奪する。”キングストンの惨劇 ”は、フォアマンの強さを世界中に知らしめた。38戦全勝(35KO)史上最高のKO率を持つチャンピオン誕生。
フォアマンを得て、ようやくサドラーも経済的に困ることがなくなった。一つ物事が上手くいくと、つられて全てがうまく回りだす。サドラーはかつての教え子、溝口氏の申し出を受け、日本での世界ヘビー級タイトルマッチ開催へ心を動かされる。
東京にはいい思い出ばかりがあった。
ライバル、フレージャーが叩きのめされたのを知ったモハマッド・アリ(米)の落胆は大きい。73年2月14日、ラスベガスに若き欧州王者・世界10位ジョー・バグナー(英)を迎えた12回戦では、”殺りく”宣言はならず、小差の判定勝ちにとどまる。
そして次々に試合を決めていたアリは、3月31日サンディエゴで地元のケン・ノートン(米)との北米タイトル戦に挑む。ジャマイカでフレージャーのスパーリング・パートナーを務めたノートンは世界ランキング7位。フレージャーのトレーナー、エディ・ファッチの指導を受けていた。
この試合が決められたのは、フレージャーvsアリ再戦への橋渡しであったと思われる。仇敵となった王者の弟分をまず粉砕し気勢をあげ、リマッチを盛り上げ、ファイトマネーを吊り上げる。世界中で一番金の稼げるカードは、アリvsフレージャー戦なのだ。
しかし、フレージャーはあっけなく負けてしまった。フレージャーのパートナーごときに負けないという自信は、落胆と過信に変わり、100.2キロというアリのウェイトに現れた。
フレージャーとファッチ
対するノートンは、初めてもらう5万ドル(約1千3百万円=当時のレート)という高額ファイトマネーに大張り切り、ファッチはアリ攻略法をバッチリ授けていた。
「最初から恐れるな!」
そして、フレージャーの後を追うように、”生きた伝説”は崩れ去るのである。 = 続 く =
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