1976年10月10日。”カンムリワシ”具志堅用高(協栄)選手が、WBA世界Lフライ級タイトルを奪取した。ボクシングファンにとって今日は、”体育の日”というよりは、”具志堅の日”である。
”シンデレラボーイ”西城正三選手が、WBA世界フェザー級王座を失って5年。康恒&晴治(フリッパー)の上原兄弟、シゲ福山選手らが挑戦して破れなかった世界の壁。
プロキャリア僅かに8戦しかない挑戦者には、「早すぎる挑戦」という揶揄と、新設間もない最軽量ウエイト(当時)の世界戦が、どれだけ世間の認知を得られるのか、という疑問がついて回る。そんな批判を浴びながらも、王者ファン・グスマン(ドミニカ)への挑戦が実現したのは、TBSテレビ運動部長(当時)の 森 忠大氏の後押しがあったから。
「具志堅君の練習を始めて見たとき、私はファイティング原田、海老原博幸らに感じたインスピレーションを持った。きっと勝ってくれる」
局内の大反対を押し切って、この試合を実現させたのは、「小さい選手でも、画面を通せばその良さを存分に伝えられると思った」というTVマンとしての確信であったと、森氏から伺いました。
TBSが撤退していたボクシング放送カムバックを果たしたのは、1975年10月のアレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)vsロイヤル小林(JRJ国際)のWBA世界フェザー級戦(協栄プロモーション)から。小林選手が具志堅選手王座奪取の前日(9日)、WBC世界Sバンタム級王座を奪取したのはTV朝日の放映でした。
王者グスマンも強かった。”リトル・フォアマン”は25勝1敗のうち、21度はKO勝ち。初回KOが10度、3ラウンドまでに勝負を決めた試合は何と17回という、大変なハードヒッターであった。
そんなグスマンと真っ向勝負。激しい打ち合いはボクシングの醍醐味を存分にお茶の間に届けた。具志堅選手は一夜にしてヒーローとなった。
世界チャンピオンとなった翌日、試合地山梨県甲府からの帰りは、「グリーン車くらい乗れるかな」と思ったという新王者だが、金平会長も一緒の満員の鈍行列車で帰京。
新王者は暫くの間、とんかつ屋のアルバイトを続け、風呂なしアパートのひとり暮らしでの生活を続けた。
「休みたい時もあるでしょう?」
「ありますよ。ほんといったらしょっちゅうですね。(~~)起きるのが辛くて。もうちょっとなんて思うわけスよ。でも、そこでパッと起きるか起きないか、これはもう自分との戦いですよ。起きてしまえば何でもないし、あとで良かったなって思うんですけどね。結局、こわいから一生懸命やるんですね」
たゆまぬ努力、そしてリングに上がれば誰にも負けない激しい闘志を見せたカンムリワシ。
ファイトマネーの歴史は。
昭和51年10月 J・グスマン 300万円 1ドル=293円(平均値)
昭和52年 1月 H・リオス 600万円 1ドル=240円
5月 R・マルカノ 1000万円
10月 M・マハチャイ 1500万円
昭和53年 1月 A・バルガス 2400万円 1ドル=195円
5月 H・リオス 3000万円
10月 鄭 相一 3600万円
昭和54年 1月 R・マルカノ 4000万円 1ドル=239円
4月 A・ロペス 4600万円
7月 R・ペドロサ 5000万円
10月 T・アベラ 5300万円
昭和55年 1月 金 龍鉉 6000万円 1ドル=203円
V11まで。金額は推定。オール込み。
凄いチャンピオンでした。
カンムリワシ2世といわれるボクサーの誕生が待たれますね。
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