世界王者ガッツ石松・28勝(15KO)11敗5分 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

昭和49年(1974年)4月11日。WBC世界ライト級王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)vsガッツ石松(ヨネクラ)戦の予想はひどいものだった。石松選手の勝利を予想する者は皆無に等しい。ボクシングマガジンの予想は、”石松の善戦どこまで?”。”石松兄ィの悔いなき善戦を期待する”と、結ばれている。

王者ゴンザレス52勝(42KO)5敗。挑戦者石松選手は27勝(15KO)11敗5分。前年9月にはWBA王者ロベルト・デュラン(パナマ)の地元に乗り込み世界王座にアタックするも、欲のなかった石松選手は10回、「予定通り」キャンバスへ沈んだ。「最初から勝てる気がしなかった」とはいかにも石松選手らしい。


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再起戦が世界挑戦。それも期間僅か4ヶ月ときては、今なら大いに叩かれそう、いや実現しないスケジュールが石松選手に組まれた。ボクシング協会は分裂の時代。ゴンザレスの王座を追うライバル門田新一選手の三迫ジムと、ヨネクラジムはそれぞれ別の協会に属していた。

「ホントは門田だったのよ」

ゴンザレスvs門田戦は内定していた。ハワイでゴンザレスに王座を追われていたチャンゴ・カルモナ(メキシコ)をノックアウト。一躍世界挑戦者の地位を獲得した門田選手の帰国第1戦は、フジTVがゴールデンタイムで放映。

王者のファイトマネーは、1万ドル三迫陣営の方が条件が良かった。ゴンザレスのプロモーターはドン・チャージン。マネジャーはジャッキー・マッコイ。ハワイのボス、サム・イチノセ氏とは昵懇である。

「安くてもサムが入るなら石松とやろう」

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マッコイは決断した。後年聞いた話だが、ゴンザレスは自信過剰になり、ウェートに問題を抱えていた。つまり、言う事を聞かなくなっていたと。毒蜘蛛にさされたと1月の試合は4月に延期になるが、その原因はコンディションつくりにもあった。チャージン氏の親分、故金平正紀会長が最も尊敬していたボクシング人ジョージ・パーナサス氏は、自らが抱える栄光の頂点にある王者を冷静に分析していた。

「わがままになった選手は、王座を去る日も近い」

そのタイミングをたくみに読み、自らの息がかかる者を挑戦者に抜擢する。黄金のバンタム。エデル・ジョフレ(ブラジル)を日本に送ったパーナサス氏は、「敗れても仕方ない」と考えていた節があります。

3度目にして初の国内挑戦。石松選手はやる気満々。一方のゴンザレスは、石松戦の次は門田の挑戦を受けると、目の前の敵を相手にしていない。デュランのボディブローで沈む石松選手のビデオを日本来てから見せられた王者は、過剰な自信にさらに磨きをかけていた。

   

昭和41年(1966年)12月デビュー。4連勝したかと思えば負けが込み4勝3敗1分。この手の戦歴は現代にも多い。自信過剰→怠けるの構図である。67年の新人王戦はあっさり敗退の石松選手。しかし、翌年の新人王戦は勝ち進み、69年2月全日本ライト級新人王を獲得する。輪島功一(三迫)選手とは同期の新人王だ。

新人王の栄誉獲得も後石松選手らしい(失礼)。8回戦は2連続引き分け。そして次は負けた。昭和45年1月25日。思わぬチャンスが石松選手にやって来た。東洋ライト級王者ジャガー柿沢(中村)選手とのノンタイトル戦。柿沢選手には世界挑戦の話もありほんの小手調べ。11連勝中(1分)の柿沢選手は、34勝(4KO)2敗2分の戦績。

この試合で石松選手はやる気になった時の無類の勝負強さを発揮する。東洋王者に10回判定勝ち。この勝利で、10回戦の経験僅かに3度ながら世界王者イスマエル・ラグナ(パナマ)挑戦のチャンスを手に入れた。一方、同郷の柿沢選手は、世界への夢が絶たれよほど気落ちしたか8連敗を記録する事になる。柿沢選手は、”真面目男”と評されていた。

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ラグナ挑戦は13回TKO負け。しかし、「ただ海外旅行へいけるのがうれしかった」石松選手は、「世界もこんなものか」という自信をつける。再起戦を勝利した石松選手は、70年10月海外リングで2敗を喫する。

10日オーストラリアで元世界バンタム級王者ライオネル・ローズ(豪)に10回判定負け。そして、29日はホノルルへ飛びWBC世界Sフェザー級王者レネ・バリエントス(比)とも10回をフルに戦い判定負け。この2試合はライト級リミットで行われている。

「海外へ行けてゼニになる。こんないい事はない」。ひと月に2敗ながら、石松選手は元気であった。

71年3月。日本ライト級王者高山将孝(P堀口)選手への挑戦は引き分けに終わる。8月、東洋ライト級王者門田新一(三迫)選手との対戦は、暑さにマイって8回KO負け。12月韓国へ渡り東洋Sライト級王者 李 昌吉(韓国)には判定負け。気がつけば10敗目。このままでは、チャンピオンベルトははるかに遠い。

72年1月16日。試合まで1週間も切った所で東洋王者門田選手への代理挑戦が決まる。当時の世界王者ケン・ブキャナン(英)への挑戦が内定していた門田選手。しかし、絶対に負けない相手のはずが、まさかの判定負け。


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「こんなはずじゃなかった」

失意の門田選手は海外修行へ飛び立つ。「世界の切符を掴むまで日本へは帰らない」。そしてそれを実行する事になるのだが、先述の通り運命は石松選手に微笑む事になる。

東洋王座2度防衛後デュランへの挑戦に恵まれたのだが、「ファイトマネー良かったし、10回までは頑張ろうと思って」を、予定通り実行。しかし、世界も遠いもんじゃないと再度認識。「俺の左フックでデュランが一度はグラリとなった」。戦った本人にしかわからぬ感触だ。

負け数11を数えるKO負けしたばかりの世界挑戦者に、すぐ再チャンスが来るとは。KO負けの後遺症も、心の痛手も何もない。ただただ、日本で挑戦できる事に喜びを感じていた。

幼少時代、大変な苦労をされて来たという石松選手。醤油一杯貸してくれなかった近所の人達が、全日本新人王を獲得するとそれとばかりにお祝いに駆けつけ後援会が出来上がった。「・・・こんなものかな」。悔しさとうれしさに涙があふれたという。

「有二(石松選手の本名)は頑張ってたよ。一生懸命だったなァ」

これは、ハワイでお会いした元日本王者清水 精 (ヨネクラ)氏の証言である。


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前に出てはボディブローを繰り出すゴンザレス。左と足で交わす挑戦者。戦いは互角の流れ。8回勝てるつもりでいた石松選手は、タイミングを読み矢のようなワン・ツー、いやワ・ツーを打ち込む。ゴンザレスが倒れた。それは信じられない光景だった。

ロング・カウントもなんのその。強いといわれたゴンザレスを完全KO。スターが誕生した。日本人初の世界ライト級王座獲得。ここぞと決めた勝負には滅法強かったガッツ石松選手。

「明日負けても悔いはない」は、「5度防衛して引退」と欲が出た。個性派チャンピオンの防衛ロードは始まった。 -続 くー

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