
昭和47年(1972年)、黒い回教徒”ホラ吹き”クレイは日本にやって来た。JBCの”特例”で試合を行う為だ。当時は外国人同士の試合は禁止。ボクシング業界の人ではない 康 芳夫氏が率いるプライム・オーガニゼイション・インターナショナル社がプロモート。
4月1日、世界1位クレイと世界ランキング7位マック・フォスター(米)30勝(30KO)1敗のノンタイトル15回戦(日本武道館)は実現する。昭和46年も終わろうとする頃、この試合の構想が発表された時、報道陣も信じようとしなかった。もちろんJBC、協会の答えもノー。「認めるわけにはいかない」

強打のフォスター。
しかし、翌47年1月事態は一転する。JBC、協会説得に動いたのは、協栄ジム金平正紀会長。そして、金平会長が尊敬しておられた日東ジム益戸克己会長である。当時、”天下のご意見番”といわれた実力者、スケールの大きな考え方を持った益戸会長が動いた事は大きい。
「今回だけは認める事にしました」
全日本ボクシング協会の笹崎会長も、「ファンが見たいカードは実現しなければいけない。これからは、日本にもヘビー級の選手が出てくると思う。もろ手をあげて賛成する事にしました」

アリついに来日。
当時の日本ボクシング界は、人気落ち目で、テレビ離れが進み、その状況は深刻を極めていた。ボクシング界にクレイを招聘出来るほどのプロモーターはいない。
金平会長は、キックボクシングとの併用興行を唱え、興行の不振挽回案を訴えたが却下されると、協会副会長を辞任する。そして、このクレイvsフォスター戦をも巻き込んだ形で、ボクシング協会は二部するところとなる。これは、次の機会に。

「ライセンスのない人のボクシング活動はダメ」
そういって、 康 氏のクレイ招聘をはねつけていたJBCである。あのアリが日本でボクシングの試合をしたのは、この一度きり。既にリングで40億円以上のお金を稼ぎ出したスーパーヒーローであったが、前年フレージャーに初黒星を喫していた当時の評価は、「もう落ち目」
マスコミ、評論家諸氏の意見は怖いものですね。(~~)そして、「クレイ人気を利用して不振を挽回しようとしているようでは、お先、真っ暗ですよ」日本ボクシング界の将来も期待されたものではなかった。(~~)
”キンシャサの奇跡”を経て、スピンクスへのリベンジを果たしたのは1978年の事。世間の風聞は怖い。一つの敗戦で、もう過去の人。アリもその例外ではなかったが、それを乗り越えたのは意志の強さだ。
「あまりにも順調に勝ちすぎているボクサーは実は弱い」
「不可能とは困難に立ち向かう事を諦めた人間、つまり臆病者が使う言葉だ」
「不可能という言葉は甘ったれの言い訳にすぎない」
「意志の力はどんな技術よりも更なる強さを与えてくれる」
たくさんの感動的語録。”神様”アリの言葉に、多くのボクサーは勇気付けられた事だろう。
さて、この試合の日本でのテレビ放映は、そう、もちろんTV東京である。ファイトマネーは、アリ40万ドル(約1億2千万円)、フォスター8万ドル(約2千5百万円)。当時日本人の過去最高は、世界フェザー級王者西城正三(協栄)選手の10万ドル(3千6百万円)。30歳サラリーマンの平均月収、約6万円かという時代。

西城選手、ファイティング原田(笹崎)選手の世界タイトル戦で、TV局が出す放映料は3千万円といわれていた。米国向け中継の為、真昼の決闘となったこの試合に、TV東京が出した金額は8千万円といわれている。破格も破格、超破格。TV東京は、凄い。
康 プロモーターは、特別席10万円をぶち上げたが、JBC、協会により却下。リングサイド3万円、2万、1万、8千、5千、3千円と続く試合チケット。日本開催世界戦の最高は1万2千円の時代。
それにしても、西城、原田選手の3倍近いお金を払ってまで放映し、大丈夫なのかTV東京。視聴率命のTV局。いかに後発局とはいえ、その勇気には頭が下る。
「一度でいいから、生のクレイを観てみたい」
業界関係にも圧倒的に多かった、クレイ観戦派。さて、日本ボクシング界の常識を覆すこのカード。その結末は。 - 続 く -
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